新発田の俊傑 溝口家歴代藩主

初代藩主秀勝(ひでかつ)(1548~1610)
(13年間)
初代秀勝は天文17(1548)年、尾張国溝口村(現在の愛知県稲沢市)で地侍の子として生まれ、織田信長の重臣丹羽長秀に仕え、天正9(1581)年に若狭国高浜城主として信長の直参となります。本能寺の変を経て羽柴(豊臣)秀吉の家臣となり、加賀大聖寺城主を経て慶長3(1598)年に越後国蒲原郡6万石の領主となり、新発田藩の礎を築きます。

二代藩主宣勝(のぶかつ)(1582~1628)
(19年間)
関ケ原の戦いの際に父秀勝とともに越後一揆の鎮圧で活躍し、大坂夏の陣に参陣します。父の代から続く新発田城築城、城下町の建設、領内の開発に着手します。

三代藩主宣直(のぶなお)(1605~1676)
(45年間)
宣直の代に新発田城が完成します。寛永11(1634)年に将軍家光の警備で上洛した後、正保の越後国絵図作成事業に携わります。五十公野御茶屋・清水谷御殿を造成します。寛文8(1668)年の城下火災、同9年の地震により、新発田城が被災し、同10年から復興に携わります。

四代藩主重雄(しげかつ)(1633~1708)
(35年間)
越後騒動により、城主が転出した高田城の在番を務めます。江戸城麻布新堀の普請手伝いを命じられ財政負担となります。清水谷に舞台を建て、能を催し、3日間で1万人以上の観客を集めました。江戸から幕府の御庭方・縣宋知(あかたそうち)を招き、清水谷御殿・五十公野御茶屋などの庭園整備の指導を受けます。宋知を介して遠州流の茶道具を収集します。領内の検地により新田高が3万石となり、総実高が8万石を超えます。

五代藩主重元(しげもと)(1680~1718)
(13年間)
宝永4(1707)年、享保2(1717)年と、河川の氾濫により水損高4万石を超える被害が相次ぎ、藩財政が悪化します。正徳3(1713)年に領内の農村に「諸事申渡覚書」、同6(1716)年に在方の町人に「覚」として、新発田藩領内独自の法度(法令)を公布し、以後、江戸時代を通じてこの法令が踏襲されます。

六代藩主直治(なおはる)(1707~1732)
(15年間)
直治の治世には90軒以上が焼失する大火が3回、水損4万石以上が4回と災害が相次ぎ、藩士への知行の配当からの借上げが行われるなど、藩財政が悪化し、質素倹約を奨励します。一方で享保15(1730)年に阿賀野川の松ヶ崎悪水抜き工事を実施するなど(翌年の増水により本流となる)、水稲生産の安定化に向けた土地への働きかけが続きます。飢饉の際には、百姓に粥が配布されました。

七代藩主直温(なおあつ)(1716~1780)
(30年間)
先代の直治は病弱で、嫡子がいなかったため、切梅分家から養子として迎えられ、七代藩主となります。就任当初、水害が続きますが、紫雲寺潟の新田開発が進み、1万6千石余りの石高を得ます。福島潟周辺でも新田の開発が進み、財政好転の兆しが現れますが、宝暦7(1757)年に大規模な水害があり、再び藩財政が悪化します。直温は、絵画・俳諧など、芸術分野への造詣が深く、「梅郊」の号で自らの作品も多く残しています。

八代藩主直養(なおやす)(1736~1797)
(26年間)
直温の側室の子でしたが、嫡子が病弱なため廃嫡となり、家督を相続します。子どもの頃から稲葉迂斎に山崎闇斎学(朱子学)を学び、自らも「浩軒」の号で安永8(1779)年に「勧学筆記」を著します。ここで、身分や天から与えられた能力に関係なく、学問の必要性を説いています。安永元(1772)年に藩校を建て、「道学堂」と命名し、安永5(1776)年には全国で三番目、本州では初めての「医学館」を創設しました。

九代藩主直侯(なおよし)(1778~1802)
(17年間)
八代藩主直養は正室を取らず、子がいないため、弟の直信が世継ぎとなっていました。しかし、直信が病弱のため廃嫡し、直信の子直侯が9歳で家督を相続します。この相続をめぐって混乱があり、これが原因で幕府から蒲原郡内と陸奥国の2万石分の領地の交換を命じられます。幼少期は老中松平伊豆守信明の後見を受けており、自ら政務に携わったのは19歳になってからです。直侯も読書家の好学藩主ですが、朱子学を専らとしていた前藩主の直養とは異なり、国学・本草学にも興味を広げ、これらを学ばなければ、朱子学の意図は理解できないと述べています。

十代藩主直諒(なおあき)(1799~1858)
(37年間)
25歳で早世した父直侯を継ぎ4歳で封襲した直諒は、成人するまで老中松平伊豆守の後見を受けました。先代藩主から続く陸奥国との村替えは実質的には新発田藩の減収となったため、直侯から直諒の代に幕府へ働きかけを行い、徐々に越後の領地を回復させてゆきました。
この頃は、ロシアが南下して日本との交易を求める動きが活発になり、新発田藩も佐渡・新潟の海岸線警備の負担が求められました。また、こうした社会情勢の変化に対し、「健斎」の号で執筆した「報国説」・「海防論」などで日本のとるべき姿を述べて尊王開国論を説き、その後の戊辰戦争での新発田藩の方針決定の指針となりました。また、画家として「景山」、茶人として「翠濤」の号を持ち、それぞれの分野で活躍しました。



十一代藩主直溥(なおひろ)(1819~1874)
(30年間)
隠居した父直諒に代わり20歳で藩主となりました。領内の新田開発が進み、天保10(1839)年に新田高を加えた石高は9万石余りとなりました。しかし、たびたび起こる災害や、豪農や豪商からの借金で、藩財政が持ち直す兆しは見えませんでした。この中で直溥は天下人から与えられ先祖から引き継いだ表高と、開発によって増えた新田高を加えた実高との齟齬の解消を検討し、藩内での参否意見を踏まえてうえで高直しの内願を幕府重役へ提出し、これが受け入れられて、万延元(1860)年に5万石から10万石、翌文久元(1861)年に従五位下から従四位下の昇進が認められました。慶応3年に家督を直正に譲り、隠居して大侯と呼ばれて藩主を支え、北越戊辰戦争を乗り切ります。

十二代藩主直正(なおまさ)(1856~1874)
(5年間)
13歳で藩主となり、前藩主・家中・領民に助けられながら北越戊辰戦争を乗り切り、新政府軍へ加わります。明治2年に版籍奉還し、新発田藩知事に就任します。明治4年の廃藩置県で新発田藩は新発田県となり、半年後に新潟県へ編入されます。溝口家は新発田から東京へ転居します。明治17年の華族令により伯爵となります。