このページでは新発田市出身者及び新発田市にゆかりのある人物について紹介しています。
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実業家
大倉 喜八郎(おおくら きはちろう)(1837~1928)
大倉喜八郎は、天保8(1837)年9月24日、大倉千之助(4代定七)の三男として新発田城下で生まれました。江戸時代後期の儒者であった丹羽伯弘が創設した私塾「積善堂」で、漢籍・習字・珠算の他、陽明学に由来する「知行合一」の考え方を学びます。安政元(1854)年、喜八郎が数え年で18歳のとき、友人の白勢三之助の父が武士から受けた扱いに不満を持ち、江戸に出て商いにより身を立てる決心をします。江戸に出てからは鰹節店で働き、安政4(1857)年には独立して乾物店大倉屋を開業。先を見ることが早かった喜八郎は、慶応4(1868)年に起こった戊辰戦争の前年に大倉鉄砲店を開き、成功して大きな利益を得ました。
明治5(1872)年に欧米の商業事情を視察し、帰国した翌年には東京・銀座に後の大倉財閥のもととなる大倉組商会を設立して貿易に進出。同社の支店をイギリス・ロンドンに開き、これが日本人商社はじめての海外進出となりました。その後、台湾出兵、西南戦争、日清・日露戦争と相次ぐ戦争のたびに政府から軍用品の調達を命じられて巨額の利益を得て、発展。また、喜八郎は明治11(1878)年に渋沢栄一らと東京商法会議所(現東京商工会議所)を設立。これ以降、東京電灯(現東京電力)、札幌麦酒(現サッポロビール) 、帝国ホテルなど数多くの会社の起業に参画し、財界の雄の一人として活躍しました。
喜八郎は事業で得た富を教育、文化事業にも活かし、明治33(1900)年に大倉商業学校(現東京経済大学)を開校したほか、美術品の海外流出を防ぐため、大正6(1917)年に日本での財団法人による私立美術館の第1号である大倉集古館を開館しました。生まれ故郷の新発田には、水道設備や羽越鉄道開通に協力し、多額の寄付を行い、新発田駅前に諏訪公園(現東公園)を寄贈。大正8(1919)年9月には大倉製糸新発田工場を開きました。
一代で財を築き、勇猛果敢に生きた大倉喜八郎は、昭和3(1928)年に92年の生涯を閉じました。
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坪川 洹平(つぼかわ かんぺい)(1874~1958)
坪川洹平は、明治7(1874)年に、元新発田藩士の三男として旧新発田町外ケ輪裏(現在の城北町)に生まれ、新潟商業学校(現在の新潟商業高等学校)を卒業後、「大倉喜八郎氏のような大商人になりたい」といって上京しました。活版所の見習工を始め、さまざまな苦難を経て住友銀行の各支店に勤務した後、その手腕を買われて西成製紙株式会社の再建を成し遂げると、浪速製紙株式会社、外川製作所を創設し、実業家として成功しました。
青年時代は、 貧しくても努力によって偉業を成し遂げたアメリカ合衆国出身の起業家・慈善家ジョージ・ピーボディの伝記「貧児立身伝(高橋光威訳)」に感銘を受けて、人生の指針としました。 昭和3(1928)年には御大典を記念し、郷土への恩に報い、人類の向上に寄与したいと、図書館の建設費用として1万6千円(現在の約2億円に相当)を新発田町に寄附し、昭和4(1929)年4月14日に新発田町立図書館が開館しました。 また、図書館を文化の本拠としてより良いまちづくりを進めるため、図書館の敷地内に図書会館(後の公民館)を建設する費用として7万円(現在の約 8億7千万円に相当)を新発田町に寄附し、昭和14(1939)年4月25日に開館しました。
更には、私財を投げ打って町商工会への奨励金などの援助、昭和10(1935)年の新発田大火の見舞い、新発田工芸女学校(現在の新発田中央高等学校)への資金援助、新発田町役場の建設に10万円(現在の約12億5千万円に相当)の無利子融資、生活困窮者や苦学生への援助などを行いました。昭和27(1952)年4月には、 新発田市で初となる新発田市名誉市民の称号が授与され、亡くなったときには、図書会館で市葬が執り行われました。享年85歳
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義人
一勇斎(歌川)国芳作
「誠忠義士伝」より織部易兵衛
(「仮名手本忠臣蔵」では幕府の規制から
逃れるため、名前を変えていた)
堀部 安兵衛(ほりべ やすべえ)(1670~1703)
堀部安兵衛武庸(たけつね)は寛文10(1670)年、新発田藩士中山弥次右衛門の長男として新発田城下外ヶ輪に生まれました。
天和3(1683)年父弥次右衛門は故あって浪人となり、その後父が亡くなると、安兵衛は、姉の嫁ぎ先である長井家の世話になり、19歳で江戸へ出ると、親戚の佐藤新五右衛門を頼り、小石川にある堀内正春の道場に入門しました。天性の剣術の才で頭角をあらわし、堀内道場の四天王と呼ばれるようになりました。元禄7(1694)年2月11日、同門の菅野六郎左衛門が、高田馬場で果し合いをすることになると、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した「高田馬場の決闘」での活躍が江戸で評判になります。これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を懇願し、初めは断っていましたが、弥兵衛の熱意にほだされ堀部家の娘きちと結婚し、また浅野家家臣に列しました。
赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役となりました。
元禄14(1701)年3月14日、主君・浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介義央に刃傷に及び、長矩は幕府から即日切腹、赤穂浅野家は改易と命が下ります。
そのような中、浅野家再興が絶望的となると、仇討ちを決定しました。
そして元禄15(1702)年12月14日、大石内蔵助良雄ら赤穂浪士四十七名は本所松阪の吉良の屋敷へ討ち入りました。1時間あまりの戦いの末、敵討ち本懐を遂げ、主君の眠る高輪泉岳寺に詣でたのちに幕府に投降しその処分を委ねました。翌年2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられました。享年34歳。四十七士は、主君浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に葬られています。
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今村 均(いまむら ひとし)(1886~1968)
今村均は、明治19(1886)年6月28日、宮城県仙台市に生まれました。父の虎尾は判事であったため、転任が多く、彼が14歳のとき、山梨県甲府市から新発田町寺町裏(現新発田市中央町1丁目地内)に移り住み、新発田中学校に転校しました。住まいの近くには、「河童の二三」と呼ばれる程、水泳が上手で、活発な男の子、滝沢二三郎が住んでおり、友人となりました。今村よりも二歳年下の滝沢二三郎は作り酒屋「滝の川」の三男でした。二人の性格は相反しており、今村が文学趣味の読書家であったのに対し、滝沢は小説嫌いのスポーツ好きであり、年上の今村を加治川や福島潟まで引っぱり出し、水泳やボート漕ぎをさせました。今村は自分が「文弱病身」にならずに済んだのは、滝沢のお陰と回顧しています。
今村は新発田中学校卒業後、陸軍士官学校に進みます。陸軍大学校では首席で卒業し、軍での昇進は約束されました。昭和17(1942)年3月1日に今村は第十六軍司令官として、オランダ領インドネシア、ジャワ島に上陸し、わずか9日間でオランダ軍を降伏させます。投獄されていた独立運動家スカルノらを解放するほか、現地民の生活に配慮した軍政を行いました。昭和18(1943)年には軍人最高の大将の地位にまで昇進します。
敗戦の日を今村はラバウルで迎えました。今村はオーストラリア軍により戦争犯罪人として収容され、禁固10年の刑が言い渡されました。次いで今村はジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に移され、オランダ軍の軍事裁判をうけましたが、これは無罪となりました。東京の巣鴨刑務所に送られた今村は、「部下の戦犯が刑に服しているパプアニューギニア・マヌス島へ転送してほしい」と強く希望し、その願いが受け容れられ、今村を乗せたオーストラリア船が横浜を出航したのは昭和25(1950)年2月のことでありました。マヌス島での服役の希望を聞いたかつての敵将マッカーサーは、「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった」と語ったと言われています。
釈放後、今村は小まめに旧部下の慰霊祭に出席し、戦没者を弔い、遺族の面倒を見ました。多くの回顧録の出版に応じたのも旧部下への援助資金を得ることが目的であったと言われています。昭和43(1968)年10月4日逝去。82歳の生涯を閉じました。
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政治家

高橋 光威(たかはし みつたけ)(1867~1932)
高橋光威は、慶応3(1867)年12月19日に新潟県北蒲原郡菅谷村で生まれました。明治17(1884)年慶応義塾(現慶応義塾大学)に進み、慶応義塾卒業後の明治23(1890)年には慶応義塾大学部法律科へ入学する一方、翻訳で生計をたてます。『米国繁盛記』など多くの洋書の翻訳を行い、中でもアメリカ合衆国出身の起業家・慈善家ジョージ・ピーボディの伝記を収録した『貧児立身伝』は、後に新発田に図書館を寄贈した坪川洹平翁に多大なる影響を与えました。
明治27(1894)年に福岡日日新聞社に入社し、間もなく農商務省の命により欧米を視察。明治35(1902)年、かつて内閣総理大臣を2度務めた松方正義から日本銀行に勤めることを勧められるも、原敬と対面し、当時彼が社長をしていた大阪新報へ入社。明治39(1906)年に原敬が西園寺内閣の内務大臣に任命されると、内務大臣秘書官として原に仕えました。明治41(1908)年5月に行われた第10回衆議院議員選挙の新潟県郡部区に出馬し、初当選。以後、昭和5(1930)年の第17回の総選挙まで連続8回の当選を果たしました。
大正7(1918)年9月29日、原内閣が成立すると、内閣書記官長(現内閣官房長官)に就任し、原敬の懐刀として活躍します。大正10(1921)年11月4日、原敬に随行して関西へ向かうとき、東京駅で首相の原が暗殺。遺書により原敬の葬儀委員長を勤めた後、内閣書記官長を依願免職しました。昭和2(1927)年の田中義一内閣では行政制度審議会委員、翌年には所属政党、政友会の最高顧問に就任。その後、持病の結核が悪化し療養生活に入りました。昭和7(1932)年4月9日に65歳で逝去。
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文化スポーツ

天田 昭次(あまたあきつぐ)(1927~2013)
天田昭次(本名:誠一)は昭和2(1927)年8月4日、刀匠天田貞吉の長男として本田村(現新発田市)に生まれました。10歳の時に父が早逝、一周忌で出会った刀鍛冶の重鎮、栗原彦三郎の一言をきっかけに父の跡を継ぐことを決意。昭和15(1940)年13歳の時に栗原が所長を務める東京赤坂の日本刀鍛錬伝習所に入門。しかし第二次世界大戦と終戦後の気運により刀を打つ機会を得らないまま20歳の頃に無念の帰郷となします。その後、師匠の栗原がサンフランシスコ講和条約の「講和記念刀」製作を呼びかけたことにより天田の作品第一号が叶うことに。昭和30(1955)年からは第一回、第三回、第四回と作刀技術発表会で3度の優秀賞を受賞し注目を浴び、その後も新作名刀展において、数々の賞を受賞しました。昭和52(1977)年、昭和60(1985)年、平成8(1996)年には現代刀の最高峰「正宗賞」を3度も受賞しています。
天田氏は目標として掲げた平安・鎌倉期の名刀の再現を模索、自家製鉄による、古代の製鉄方法にこだわっていました。一時は病に倒れ闘病生活に入るも、月岡に製作拠点を構え伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀、横綱北の湖の土俵入りの太刀を作製。さらには、新発田城復元完成の際には記念太刀を勤作。中越地震が起きた翌年には災害復興祈念として「剣銘・不動丸」を製作し新潟県に寄贈。秋篠宮悠仁親王殿下ご誕生の際には御守刀を勤作しています。刀匠としての功績が称えられて豊浦町文化財、新潟県無形文化財として指定。平成9(1997)年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されると共に豊浦町名誉町民となります。平成11(1999)年に勲四等旭日小綬章を受章。平成15(2003)年には新発田市名誉市民の称号を贈られました。公益財団法人日本刀文化振興協会が発足されると理事長に就任・第62回の式年遷宮で再度御神宝制作に携わります。平成25(2013)年6月25日に逝去。
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(上)1923年(25歳)頃の写真
(下)1949年(51歳)頃の写真
蕗谷 虹児(ふきやこうじ)(1898~1979)
蕗谷虹児(本名:一男)は明治31(1898)年12月2日、新発田町で蕗谷傳松・新保エツの長男として生まれました。生後は母の実家の銭湯「有馬の湯」で祖父母に育てられ、4歳になりようやく両親に引き取られるも、明治44(1911)年13歳の時に病弱だった最愛の母を亡くしました。
大正2(1913)年15歳の時、日本画家・尾竹竹坡(おたけちくは)の内弟子になり上京、画家の道へ進むも、家庭の事情により新潟や樺太での映画館の絵看板描きで生計を立てていました。大正8(1919)年樺太での放浪生活から帰京すると翌年22歳の時に竹久夢二の紹介で「少女画報」で挿絵デビュー、翌年には、朝日新聞の連載小説の挿絵に抜擢、少女雑誌「令女界」「少女倶楽部」などに表紙絵や口絵を描くようになり、人気作家となります。その後も、「銀の吹雪」「睡蓮の夢」など詩画集9冊を出版、時代の寵児となりました。
大正14(1925)年27歳でパリに留学するとサロン・ナショナルやサロン・ドートンヌなどの公募展に9作品入選を果たすとともにパリの有名画廊で個展も開催しました。
昭和6(1931)年帰国するとモダンな画風で一世を風靡します。昭和10(1935)年には詩画集「花嫁人形」を出版しています。
日本も戦争に突入すると時代とともに絵の内容も少女雑誌から絵本や戦争漫画に移行していきます。
晩年は、新宿の百貨店で「画業50周年記念抒情画展」を開催、以降5回の個展を開催し『花嫁』『うたたね』『西堀通り』など新作も発表しました。
昭和54(1979)年中伊豆温泉病院にて急性心不全のため逝去。享年80歳
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医療・福祉


北海道大学附属図書館所蔵
平沢扉山画「蝦夷人種痘之図」
桑田 立斎(くわた りゅうさい)(1811~1868)
桑田立斎は文化8(1811)年新発田藩士村松喜右衛門の次男として、新発田城下で生まれました。幼名は五八郎、その後、元服して名を「和」に改め、後に立斎を名乗ります。
文政9(1826)年立斎は医学を志し16歳で江戸へ上ります。父の死に伴う一時帰国を経て、江戸の日習堂で西洋医学を学び、茅場町の小児科医桑田玄真の養子となります。ここで、種痘の技術を習得し、嘉永2(1849)年には長崎を経由してもたらされた牛痘の接種を江戸で行いました。
その後、牛痘の普及を啓発するための『牛痘発蒙』(1849)などを著し、安政4(1857)年には、当時北海道で流行していた天然痘の感染防止のため、幕府から派遣されて蝦夷地(北海道)で6000人ものアイヌの人たちに牛痘の接種を行いました。立斎は58歳で亡くなるまで、7万人余りの人に種痘を行いました。
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溝口 栄姫
(有栖川宮董子)
(みぞぐち はるひめ(ありすがわのみやただこ))(1855~1923)
溝口栄姫(みぞぐちはるひめ)は、越後新発田藩10代藩主溝口直諒(なおあき)の6男、直興(なおおき)の次女として安政2(1855)年に生まれ、伯父で11代藩主直溥(なおひろ)の養女となります。病で先妻を亡くした有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と明治6(1873)年に結婚し、董子(ただこ)妃と名を改めます。熾仁親王は、戊辰戦争で東征大総督として西郷隆盛らを率いていましたが、西南戦争では逆徒征討総督として西郷らと戦うことに心を痛めます。そこで佐野常民が建議した敵味方関係なく負傷者を助ける「博愛社」の活動を認め、これが後の「日本赤十字社」の創立へとつながります。董子妃は熾仁親王の活動を支えるとともに、自らも東京慈恵社(後の慈恵医科大学附属病院)の幹事を務め、日本の医療・福祉の近代化に貢献します。また、織仁親王妃として明治22(1889)年2月11日に皇居宮城の正殿(大倉喜八郎が建てた蔵春閣内装の手本)で大日本帝国憲法発布式に立ち会います。
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藩政

新発田藩歴代藩主肖像図は宝光寺所蔵
溝口家歴代藩主(みぞぐちけれきだいはんしゅ)
新発田藩主溝口氏は尾張国の地侍出身で、丹羽長秀、織田信長、豊臣秀吉に仕えて越後国蒲原郡6万石の領主となります。関ケ原の戦いの前後に徳川方についた外様大名です。江戸幕府成立後は、慶長15(1610)年に2代藩主が相続する際、2代の弟に沢海藩1万石を分与し、以降5万石の大名として、蒲原郡信濃川・阿賀野川・加治川下流域の領主として江戸時代末期まで統治し、幕末には新田開発により新たに増やした水田の石高を加え10万石の大名となります。