22シーズン目
関東ラグビークラブ(AJRA)創立「関西に創立されたオールホワイトと東西対抗を行うために、大正9年11月3日東京に慶応OBを中心としたAJRA(All Japan Rugby Association)誕生」(片岡メモ)。
『慶応60年史』P256に橋本壽三郎氏が「早慶試合について」と題して、第1回の早慶戦にAJRAが実現に尽力し、試合を主催することになった経緯を述べている。当時は明治39年の早慶野球戦でのトラブル1)で、これ以後、大正14年まで早慶両校が対戦を中止していた。
東西OB対抗始まる
オールホワイト、AJRAが中心となって第1回の東西OB対抗が行われた。試合やルールを統括する組織として関東・関西協会設立の機運が高まってきた。
T9(1920).11.7 | ●関東OB | 3−6 | ○関西OB |
G:三田綱町 | R:松岡正男 | 第1回 | |
T10(1921).2.11 | ●関東OB | 0−17 | ○関西OB |
G:豊中 | R:櫛山次郎 | 第2回 |
同大の公式試合なし
『同大ラグビー史』P39には「同大は部活動が低迷し大正8年度は京都一商と練習試合をした他は三高戦のみ、9年度は公式戦なし、暗黒時代と称せられた10年度が終わると11年度から伝統の灯は再び燃え上がることになった」とある。
大阪高商(現大阪市立大学)ラグビー部創部
「大正9年、シーズンを迎えて11月中旬より天王寺公園で練習を開始、12月19日に最初の公式戦を関西ラグビークラブと行い3対19で敗退した」(『関西協会史』P112)。
第4回日本蹴球大会(豊中)
中学の部は同志社中、京都一商、慶応普通部の3校が出場し同志社中が2連覇を遂げた。
大学高専の部は慶大予科、関西学院、大阪高商の3高が参加、慶大予科が優勝した。この大会以前は中学の部に併合されていた。
その他の主要試合
〈関東〉 | |||
T9(1920).12.5 | ●早大 | 3−43 | ○YCAC |
G:横浜根岸 | R:不明 | 第2回定期戦 | |
T10(1921).1.5 | ○慶応義塾 | 9−0 | ●三高 |
G:三田綱町 | R:増田鉱太郎 | 第8回定期戦 | |
T10(1921).1.6 | ○三高 | 17−0 | ●早大 |
G:三田綱町 | R:大市信吉 | 第2回定期戦 | |
T10(1921).1.8 | ●三高 | 0−16 | ○YCAC |
G:横浜根岸 | R:不明 | 第2回定期戦 | |
〈関西〉 | |||
T9(1920).11.272) | ●三高 | 0−9 | ○KRAC |
G:神戸東遊園地 | R:スレフェンス | 第17回定期戦 | |
T10(1921).2.5 | ○三高 | 6−3 | ●KRAC |
G:京都一中 | R:スペンス | 第18回定期戦 |
1) 「野球の早慶戦で応援合戦が過熱し一触即発の不穏な雲行きとなり1勝1敗で迎えた3回戦が急遽中止された」(『早稲田スポーツの一世紀』P16、早稲田大学、1993)
2) 三高蹴球部史P226に11.27、関西協会史P102には11.24。