大正11年(1922)度

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24シーズン目

第1回早慶戦の実施
 明治39年の早慶野球試合で紛糾を起こして以来、両校間では対抗試合を一切禁止されていたので、ラグビー早慶戦の実現には難しい問題が山積していた。慶応の大市信吉と早稲田の中村元一が十数回会合を重ね、関係者の努力が実って11月23日に三田綱町グラウンドで歴史的な試合が成功裏に行われた。試合は14−0で慶応の勝利に帰したが、早慶スポーツ交流再会のきっかけとなったことにとどまらず、大学ラグビー隆盛の礎ともなった。日本ラグビー発展に寄与したことでは、大正時代屈指の出来事であったと思う。
明治大学ラグビー部創部
 同年春、創設者能美一男が中心となり、柔道仲間の島崎軍二、大里弼二郎、鎌田久眞男らを説得し、早大ラグビー部主将大町清の協力を得て創部された。このとき、大町主将から手渡されたボールを能美が力いっぱい蹴ったのが、明治大学ラグビー部誕生のファースト・キックでもあった(『明大ラグビー史』P1より抜粋)。
商科大学(現一橋大)ラグビー部創部
 東大京大に続いて官立三番目の大学ラグビー部として商大にラグビー部が創部した。「創始者藤野嘉蔵は京都一商から大阪高商を経て商大に入り、仲間を募りラグビー部を創部した」(『日本ラグビー史』P112)。慶応義塾が蒔いた種が、京都で育ち再び東京へ戻って花を咲かせたという好例であろう。
大阪高等学校ラグビー部創部
 学校の創設とほぼ同時に創部されたラグビー部は翌12年の極東オリンピックに出場、早大に3−39で敗れている。この試合唯一のトライを挙げた寺村誠一は後に東大でプレーし、昭和5年の日本代表カナダ遠征のメンバーに選ばれキャッププレーヤーになった(『関西協会史』P114より抜粋)。
日本最初のルールブックを三高が自費出版
三高ラグビー部がKRAC(神戸外人倶楽部)から正規のルールブックを入手して、部員が分担して翻訳、冊子として各方面に配布した」とある(『三高蹴球部史』P22)。これが日本で初めての貴重なルールブックとなった。私の推測だが、それ以前は慶應のクラーク先生から教えられた『ラグビー式フットボール』(明治42年、慶応義塾蹴球部)のルールを書き写したりしたものと思われる。大きな事故や問題が生じなかったのは、フェアプレーを重んじるラグビー精神のおかげだろう。
第6回日本蹴球大会(宝塚)
 第6回大会は会場を新設の宝塚球技場に移し、中学の部は同志社中、立命館中、京都一商の出場で同志社中が4連覇を達成した。大学高専の部は三高同大の2校が出場、両校譲らず0−0で引き分けた。
英戦艦レナウン号と初の親善試合
 レナウン号が日本に寄港した折に、関西クラブ及び大阪高商と親善試合行った。在邦外人チーム以外との初手合わせであった。
その他の主要試合
〈関東〉
T11(1922).11.5早大0−15YCAC
G:横浜根岸R:グリッパー第5回定期戦
T11(1922).11.12○関東OB3−0●関西OB
G:三田綱町R:大市信吉第5回
T11(1922).11.23○慶応義塾14−0早大
G:三田綱町R:香山蕃第1回定期戦
T11(1922).12.28京大0−0東大
G:一高R:鶴原浩二第2回定期戦
T12(1923).1.4○慶応義塾13−3三高
G:三田綱町R:メーズ第10回定期戦
T12(1923).1.7三高3−13YCAC
G:横浜根岸R:アトール第3回定期戦
T12(1923).1.8○慶応義塾20−0同大
G:三田綱町R:メーズ第10回定期戦
T12(1923).1.9三高3−3早大
G:早大戸塚R:大市信吉第3回定期戦
T12(1923).1.11三高0−3東大
G:一高R:メーズ第2回定期戦1)
T12(1923).1.11同大3−0早大
G:早大戸塚R:増田鉱太郎第1回定期戦
T12(1923).1.21○慶応義塾8−0東大
G:三田綱町R:メーズ第1回定期戦
T12(1923).1.28早大0−0東大
G:一高R:大市信吉第1回定期戦
〈関西〉
T11(1922).4.29●大阪高商?−?○英艦レナウン号(前半のみ)
G:大阪高商R:不明
○関西クラブ6−5
G:大阪高商R:不明
T11(1922).4.29三高8−3●KRAC
G:三高R:竹上四郎第22回定期戦
T11(1922).11.25同大0−3○KRAC
G:神戸東遊園地R:ウィリアムス第18回定期戦
T12(1923).2.6三高0−3同大
G:三高R:杉本貞一第11回定期戦2)
T12(1923).2.11●関東OB0−3○関西OB
G:宝塚R:馬場二郎第6回
T12(1923).2.17三高6−3●KRAC
G:神戸東遊園地R:スペンス第23回定期戦

1) 『関西協会史』P77には1月14日とある。
2) 交流が途絶えていた三高、同志社の定期戦が復活した。