昭和18年(1943)度

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45シーズン目

【協会】 田中銀之助逝去 日本ラグビーの祖、田中銀之助(日本協会名誉会長)が昭和18年(1943)8月27日に逝去した。71歳だった(『慶応100年史』P518)。/ラグビーが闘球に ラグビー用語はすべて敵性だとして日本語に改め、闘球と称した。スクラム=整集、ルーズ=密集、トライ=達成、タックル=挺倒、ノックオン=前揆など(『学徒闘球講習会資料』大日本学徒体育振興会 昭和18年)。/ラグビー試合全面中止 「閣議は9月22日、学徒に動員令を発し、部の活動は全面休止となった」(『日本ラグビー史』P262)。「日本ラグビー協会は大日本体育会闘球会と改称され(中略)、協会は10月14日に送別試合を明治神宮競技場で開催する。/ラグビー協会の送別試合 「日本ラグビー協会は大日本体育会闘球会と改称され、協会は10月14日に送別試合を明治神宮競技場で開催する、と日帰りのできる学校に通知を発した。午後1時に集まったのは約100名」と『片岡メモ』にあるが、“闘球会と改称され”という文言に、片岡先輩のやり場のない怒りと無念さを感じる。/全早慶戦の実施 11月24日付け朝日新聞の片隅に“二十三日の練成”「闘球」に◇早慶対抗(現役、先輩聨合)早大25(15−14、10−6)20慶大 とあった。“けふの鍛錬”というカテゴリーに戦時色がにじむ。『早大ラグビー史の研究』ではこれを見落とし、「昭和18年度は17年秋にシーズンを繰り上げて実施したため公式試合なし」と断定している。お詫びして訂正する。