日本の大学ラグビーは、英国にならって対抗戦形式で発展してきた。東西で優勝したチームの対戦が組まれないことが多く、不満が出るのも当然であった。すっきりしないことは、大学選手権以前の東西王座決定戦の歴史を見れば理解できる。
本書では昭和2年(1927)度の京都大学を、第1回の全国制覇と認定して、大学選手権発足以前を、大学東西王座決定戦として歴史にとどめることとした。昭和2年(1927)11月23日の第6回早慶戦で慶応大学は早稲田大学に6−8で敗れ、創部以来初めて日本人チームに敗れた。だがその早大も東京大学に6−19で敗れ、関東は全勝校がなく優勝は預かりになった。京大は関東の早大、慶大を破って初の全国制覇を成し遂げた。
昭和4年(1929)度、立教大学が5人TBで関東大学を制し初優勝を果たした。しかし京大と定期戦を組んでいなかった立大にはチャレンジの機会がなく、立大に敗れた慶大と京大の試合が、王座決定戦とみなされた。
この矛盾は新興チームの日本大学、法政大学、関西学院大学らが台頭してきた昭和30年代に顕著となり、関東を中心にスケジュール問題が紛糾した。
昭和30年(1935)度には、慶大と日大が全勝したが両校の対戦がなく、日大は同大とも対戦がないため、王座決定戦の機会が与えられなかった。また日大、法大が優勝した年には、関西の同大との対戦がなく、慶大が優勝した年も関西学大との対戦がなく、王座決定戦そのものが不成立となった。私はこの時代に早大の一部員だったが、スケジュールをすっきりさせてほしいと強く願っていたのを思い出す。
昭和35年(1960)度、日本協会は、大学と社会人のチャンピオンを対戦させる制度を採択した。出場チームは日本協会が選び、日本協会招待NHK杯争奪戦と称した。さらに昭和38年(1963)度から、NHK杯を発展的に解消、正式に日本選手権試合と名称を変更した。招待チーム決定についての曲折は、翌昭和39年(1964)度、大学選手権大会の実施によって解消された。「お互いに尊敬しあえる相手と試合する定期戦が対抗戦の原点であり、チャンピオンを決めるために試合することの弊害は大きい」としてきた大学ラグビーは転換期を迎え、日本のラグビー界は、対抗戦からチャンピオン制度へと大きく舵を切ることになった。
昭和39年(1964)度、大学選手権大会の実施によって、ようやくこれらの問題が解消され、ラグビー人気が上昇機運に乗っていくことになる。
大学東西王座決定戦(35回) | ||
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優勝チームおよび優勝回数 | ||
1 | 早稲田大学 | 11回 |
2 | 明治大学 | 9回 |
3 | 京都大学 | 4回 |
4 | 慶応大学 | 3回 |
5 | 関西学院大学 | 1回 |
6 | 同志社大学 | 1回 |
該当チームなし | 6回 |