全国社会人大会の歩み

「社会人ラグビーの濫觴(らんしょう)[物事の始まり]は、大正末期からはじまった実業団ラグビーである」(『日本ラグビー史』P144)とあり、大正12年(1923)ごろに東京電気、愛国生命、常盤生命、東京電灯、日魯漁業などのチームが活動していた。昭和8年(1933)には日本協会に23チームが登録している。その後、大学ラグビー界の精鋭が集まった朝鮮鉄道、満州鉄道などの強豪チームを除いては、そのほとんどがラグビーをエンジョイするクラブチームであった。
 昭和24年(1949)1月に日本協会主催、朝日新聞社後援で第1回全国実業団大会[第5回から社会人大会]が行われ、社会人チームが強化に本腰を入れるようになった。
 第1回大会は東北・北海道地区代表、東北肥料の棄権により、わずか3チームで行われた。従来その事情が不明だったが、札幌鉄道局が代表だったことが判明した(『月刊RUGBY』No12 P16)。「試合の一週間前に札鐵不参加の報がもたらされ、関係者をあわてさせ、東北地方で優勝した東北肥料の出場が決定されたが、突然のことでこれに応じる体制不十分で、遂に参加できなかったのは淋しかった」(『月刊RUGBY』No13 P30、川上省三)。同情できる棄権だったといえよう。
 第2回大会から8チーム、昭和32年(1957)1月の第9回大会から16チームが参加して優勝を争うようになり、本格的な盛り上がりを見せた。
 大会の歴史は下記の決勝戦を見ればわかるように、55年の歴史を5期に分けて捉えることができる。
第1期 第1回~第20回 八幡・近鉄時代
 第3回大会から20回大会までは八幡製鉄・近畿日本鉄道以外の優勝チームは、引き分け双方優勝の九州電力のみであり、18年もの長期にわたり両チームで優勝を分け合ってきた。
第2期 第21回~第30回 第1期群雄割拠時代
 第21回大会で初めてトヨタ自工が優勝し、30回大会で2度目の優勝を果たすまで、近鉄新日鉄釜石リコー三菱自工京都の5チームが優勝を分け合う群雄割拠の時代となった。
第3期 第31回~第40回 新日鉄釜石時代
 正月の国立競技場に毎年大漁旗が打ち振られ、真紅のジャージィがグラウンドに躍動する釜石時代が到来した。
第4期 第41回~第47回 神戸製鋼時代
 釜石を追うように林敏之、大八木淳史、平尾誠二の神戸製鋼が7連覇の記録に並ぶ。日本の頂点には赤がふさわしいのか、神鋼も燃えたぎる溶鉱炉の赤ジャージィで、他チームを席巻した。
第5期 第48回~第55回 第2期群雄割拠時代
 神鋼に加えて、東芝府中、サントリートヨタ三洋電機が競い合う戦国時代に突入、55回の大会を惜しむように、トップリーグ時代へと移行する。