昭和5年(1930)に突如として各地、各層で開催されたのはなぜだったのか、だれが推進役だったのか、まだ不明な点が多い。昭和5年11月に『ラグビーフットボール』を出版した香山蕃が「将来へ向かって本来のラガーに対してもっとも有力なる補助競技となる見込みが十分ある。その証拠に最近英国では、ラグビーフットボールのシーズンを一月ばかり早く切り上げて、即ち三月中にインターナショナルマッチを終へて四月に入ればこのセブン・ア・サイドのインターナショナル・コンペティションを行へば、最も興味のあることであると論ぜられだしたことを考えても、セブン・ア・サイドそのものにラグビー・フットボールを通じての価値を発見するのである」などとP348-356にわたって力説していることから、私は
カナダ遠征でラグビー人気を一気に盛り上げた、ミスターラグビー・香山蕃氏が
日本でのセブンズの推進役だったと思っている。
12シーズンの間、各地で盛んに行われた7人制ラグビーは、昭和17年(1942)年に消滅した。戦雲急を告げ、学徒動員などのため、春季、秋季と分けて18年度のシーズンを突如繰り上げ開催したため、セブンズを行う余裕も時期もなくなったことは明白であった。そして昭和34年(1959)に
YCACの大会が行われるまで、7人制ラグビーは18シーズンの空白期間が生じることになった。
『千代原頭の想い出-福中・福高ラグビー五十年史』(福中・福高ラグビー部OB会、1974)P283に、“昭和9年5月6日、春日原で第1回九州7人制大会が開かれ、決勝で福中が15−6で修猷館を破って以来、昭和18年の第10回大会まで続いていたこと、さらに昭和38年4月28−29日、平和台で戦後第1回九州7人制大会が復活していること”が記述されている。東北、関西、九州など各地で7人制ラグビーは同じように推移していた。