概要
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【一日で一万句!?菊池の文化の礎(いしずえ)を築いた武将】 隈府(わいふ)を中心に、肥後北部6郡を支配していた室町時代の守護大名(しゅごだいみょう)。菊池為邦(ためくに、菊池一族20代)の嫡子(ちゃくし)。 父の代に失った筑後守護職(ちくごしゅごしょく)を取り戻そうと、応仁の乱(1467年~)に乗じて筑後方面への勢力拡大(かくだい)を図る。しかし、弟の武邦の反乱などから失敗に終わった。 隈府高野瀬(わいふたかのせ)に聖堂を建設するなど、武将と同時に、文人としても知られる。1477年には桂庵禅師(けいあんぜんじ)という著名な僧を菊池へ招き、孔子堂で釈奠(せきてん)の礼という儒教の儀式を行った。また、1481年には自身や配下の武将の邸宅で、1日で1万句を詠むという連歌の会を催した(菊池万句)。父為邦に引き続き、文化・教養の面に力を入れた。 その後、叔父である宇土為光(うとためみつ)と争い、益城守富で勝利する。しかし、阿蘇・相良(さがら)氏に矢部幕の平で破れ、守護の権威(けんい)を失った。墓所は江月山玉祥寺(ぎょくしょうじ)にあり、父為邦の墓の近くにある。
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