松代藩と黒船来航 ~真田家伝来資料に見る交歓~
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカのペリー艦隊が軍艦4隻を率いて浦賀沖に現れます。ペリーは久里浜にてアメリカ大統領からの修好通商を求める親書などを浦賀奉行に受け渡し、来春の再来を告げて退去しました。
翌嘉永7年(1854)1月16日、ペリーは軍艦9隻を率いて予告よりも早く浦賀に再来航します。交渉は横浜に設けられた応接場で行われ、交渉の末、日米和親条約が締結されました。
山に囲まれた松代藩、黒船来航と何が関係あるの?と思われがちですが、実はこのとき松代藩は、幕府から横浜応接場周辺の警衛を小倉藩とともに命じられ、横浜に滞在して警備を固めていたのです。
そのような関係から、松代藩では黒船来航の様子がいくつか描き残され、真田家伝来資料として真田宝物館に伝えられています。
横浜応接場での交渉のための会談は1度だけではなく、嘉永7年2月20日~2月30日の20日間に4度の会談が行われました。2月10日の初会談の後、幕府は応接場内に会食の席を設けました。真田家伝来「横浜応接場秘図」はそのときの様子を描いたものです。奥にアメリカ人が並んで座り、手前に背中を向けて座っているのが幕府応接掛です。
応接掛は鮮魚を中心とした会席料理や日本の酒でもてなしたといわれています。日本の食文化に驚いていたのでしょう、料理を持ち上げて珍しそうに観察するアメリカ人の様子が描かれています。左側にはアメリカ人と応接係が握手をする姿も見られ、和やかな雰囲気の中、会食が進められた様子がわかります。
絵図には、向かって右端の前列にペリーが座り、その左側へアダムズ(参謀長)、ペリーの子、ポートマン(通訳)、ウィリアムズ(通訳)とみられる人物が座る様子が描かれます。彼らは赤い布が掛けられた長椅子に座り、前には長机が設けられ、そこへ料理が出されていることがわかります。応接掛が西洋の風俗に合わせて会場を用意した様子がうかがえます。
アメリカ人と応接掛の間に座り、話に耳を傾けている人物がいます。彼はもと長崎のオランダ通詞でペリーとの会談では主席通訳をつとめた森山栄之助です。会談はオランダ語を介して行われました。ペリーらの言葉を、アメリカのオランダ語通訳であるポートマンに英語からオランダ語に通訳してもらい、さらに森山栄之助がオランダ語から日本語へ通訳して応接掛へ伝える、という方法で会談を進めていました。
条約交渉の大詰めである4度目の会談を前日に控えた嘉永7年(1854)2月29日、ペリー一行は蒸気船ポーハタン号上へ幕府応接掛の役人約70名を招きます。ポーハタン号の装備や機関、操舵の様子を見学した後に会食となり、牛肉料理やワインなどでもてなされ、幕府役人は大いに食を楽しんだといわれています。夕方からはミンストレル・ショーという余興が催されました。ミンストレル・ショーとは、顔や体を黒く塗り、黒人に扮したアメリカ人が歌い踊り珍妙なスピーチを繰り広げるもので、当時アメリカで話題のショーでした。様々な音楽も奏でられ、現在でも耳馴染みのある「草競馬」なども演奏されたといいます。
このほかにも、ペリーからは蒸気機関車模型などが幕府へ贈られ、写真撮影や電信機実験などが披露されました。幕府からは答礼品が贈られたほか、力士による米俵の積み込みパフォーマンスなどが披露されました。
こうした、日本とアメリカの多様な交歓の中で交渉は進められ、嘉永7年3月3日に日米和親条約が締結されたのです。