真田家の関ケ原の戦い
信州上田城、上州(現:群馬県)沼田城などの城主であった真田昌幸は、慶長5年(1600)関ケ原の戦いを前に、徳川家康の号令のもと会津(現:福島県)の上杉景勝討伐のため、東北へ向かいました。その途中、下野国(現:栃木県)犬伏あたりまで来たところ、大坂に残った豊臣家の家臣である石田三成や毛利輝元といった西軍が戦いを仕掛け、西軍に味方してほしいという誘いの手紙を受け取ります。
この時、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信之は徳川家康の東軍に味方することに決めました。親子兄弟が別れて戦うという非情な選択ともみえますが、おそらくはこうなることをある程度予想しており、家を存続させるために以前から決めていたことだったと思われます。
7月17日に書かれた一番初めの誘いの手紙が下野の昌幸たちに届いたのは、7月20日ごろとみられ、昌幸と信繁は、すぐに上田城へ引き返したようです。信之は、下野国小山(現:栃木県小山市)に陣を張っていた家康のもとに参陣し、7月24日には昌幸らと別れて家康に味方したことを褒められています。そして、27日には、昌幸の領国である上田などの小県郡を与えると約束されています。
一方、昌幸には7月29日付で西軍の武将たちから、伏見城の徳川家康家臣・鳥居元忠を討ったことをしらせ、家康が勝手に政治を行っていることを非難し、大坂では大名たちの妻子を人質にとっているから西軍が有利であるとの内容に加え、秀吉の息子・秀頼に忠義を尽くすよう誘う手紙が複数書かれています。これらをまとめて7月晦日には石田三成からもさらに西軍が有利であることを伝える長い手紙が昌幸宛に書かれています。この手紙の書き出しは「去る21日のお手紙が27日に(私の城である)佐和山城(現:滋賀県)へ届き、拝見しました」とあります。つまり、昌幸は誘いの手紙が来てすぐに西軍に味方することを決め、そのことを伝える手紙を書いていることがわかります。
さらに「挙兵することを前もってお知らせせず、お腹立ちなのはやむをえないことです」とあり、昌幸が西軍の挙兵に際して報告がなかったことに腹を立てていたこともわかります。
8月5日付の石田三成書状は、昌幸・信之・信繁三人に宛てられています。この書状には、西軍に通じている上杉景勝へ使者を送るので通してほしいと頼んだり、信濃国の主要な場所の仕置きを昌幸に任せる、と伝えたりしており、昌幸に対して大坂と東国とのつなぎ役を期待していたとみられます。しかし、すでに家康の指揮下に入った信之へも宛てる形にしているため、少なくとも西軍には、信之の動向が伝わっていなかったと考えられます。これは、昌幸がわざと信之の動きを伝えていなかったのではないかとの見方もあります。
いずれにしても、昌幸が西軍と東軍の動きを見極めつつ、生き残りをかけてどう立ち回るべきかを考えていた様子がうかがえます。真田家は関ケ原の戦いそのものには参陣していませんが、真田家にとって、この戦いの前に大きな転機を迎えていたのです。