真田家伝来の婚礼道具

 長野市松代町は真田信之が上田から移封されて以来、江戸時代を通じて松代藩十万石の城下町として栄えました。その松代藩真田家に伝来した大名道具を収蔵・展示しているのが真田宝物館です。
 当館で所蔵する大名道具は、刀剣や甲冑などの武具類のほか、屏風や掛軸などの書画類、戦国時代の文書など、その数は約5万点に及びます。 それら大名道具のなかには、男性のものだけでなく、歴代藩主の正室や側室、子女といった女性の道具類も数多くあります。
 ここでは、婚姻の際に真田家へ持ち込まれた「婚礼道具」について、その主なものをご紹介します。

広蓋(伝 3代藩主・真田幸道正室 法雲院所用)

 婚姻にあたり調えられる婚礼道具には、筆頭とされる貝桶のほか、三棚、雛道具、化粧道具、手水道具、歯黒道具、文房具、遊戯具、茶道具、香道具、武具、収納・運搬具、乗り物、掛け物・絵画類、屏風、図書、飲食器、楽器、薬、照明、暖房器具、お守りなど実に多岐にわたりました。生活に必要な、ありとあらゆる道具類が調えられたのです。
 江戸時代、婚礼道具は体系化され、何百~何千点という道具類が時間をかけて調えられました。特に、寛永期(1624~1643)は「大名婚礼調度の黄金時代」ともいわれ、蒔絵が施された豪華で美しい婚礼道具がつくられています。その後、時代が下るにつれて、金梨子地であったものが、黒漆塗のものになるなど、簡素になる傾向がありました。
 このことは、真田家伝来の大名道具をみてもわかります。

 婚礼道具には、様々な家紋が配されています。ここでは「梅鉢紋」の例をみていきましょう。
 6代藩主・真田幸弘の正室である真松院は、白河藩松平家から輿入れしており、白河家の家紋は「梅鉢紋」です。真松院の所用とされる婚礼道具には、実家の家紋「梅鉢紋」と嫁ぎ先である真田家の家紋「六連銭紋」とが配されています。
 真松院の義娘に真珠院と心蓮院がおり、その2人の道具類を記した「道具帳」が伝来しています。そこには、「梅鉢紋」入りの道具が数多く記されています。真珠院・心蓮院共に、「梅鉢紋」は嫁ぎ先の家紋ではありません。では、なぜ、2人の道具として「梅鉢紋」入りの道具が記述されているのでしょうか。
 実は、道具によっては「有合(ありあわせ)」、「損繕」、「塗直し」、「沃懸直(いかけなおし)(蒔絵のやり直し)」といった注記がみられます。これらの記述から、想像されるのは、義母である真松院の道具を、そのまま、あるいは漆を塗り直す、蒔絵を修復する等して、2人の娘が再使用したということです。「道具帳」の記述から、母から子へと道具が受け継がれ、大切にされてきたことがわかります。

黒棚 払箱(6代藩主・真田幸弘正室 真松院所用)

 松代藩真田家では、藩主やその正室らを名前のかわりに「○印様」と「印」をつけた敬称を用いていたことがわかっています。「印」と「人物」とが特定できるのは、いずれも女性で、貞松院(真田幸良正室)は「鯉印」、真晴院(9代藩主・真田幸教正室)は「南天印」、真浄院(10代藩主・真田幸民正室)は「桐印」、智光院(11代当主・真田幸正妻は「米印」などです。
 「印」は、道具に直接、あるいは道具をおさめる収納箱などにみられます。墨書や朱書による記述のほか、文字を焼印したものなど、方法も様々です。
 この「印」は道具の所用者を示すと共に、前述した家紋と同じく、道具の伝来経緯を知る手がかりとなります。

 ここまで、真田家伝来の婚礼道具について紹介してきました。「道具帳」の分析や、「家紋」や「印」といった付属する情報を丁寧に調べることにより、その道具のたどってきた歴史を知ることができます。豪華な蒔絵による姿の美しさと共に、道具の伝来を知ることで、さらにその魅力を感じることができるでしょう。

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