『真武内伝』 ―「川中島の戦い」と真田・村上氏―
はじめに
ここでは、館蔵資料である『真武内伝』(写真1)について紹介しながら、「川中島の戦い」前後の時期の真田氏や村上氏の描かれ方についても触れていきたいと思います。
『真武内伝』は松代藩士の竹内軌定によって、江戸時代中期の享保16年(1731)にまとめられた書物です。戦国時代から江戸時代はじめにかけての時代、幸隆(幸綱)・昌幸・信之・幸村(信繁)を中心とした真田家の系譜や出来事が記されています(写真2)。本編5巻に附録5巻の合計10巻からなります。次に書かれている内容についてみていきます。
写真1『真武内伝』より 上野沼田周辺を描く。
天正8年(1580)真田昌幸が奪取した。
写真2 『真武内伝』より 真田家系図の一部分。
海野棟綱から真田昌幸までを記す。
『真武内伝』にみる真田と村上
『真武内伝』には、おおまかには次のようにあります。
天文年中、海野棟綱の長男・幸義は、村上義清と信州小県で合戦し討ち死にしました。弟の真田幸隆は上野国箕輪城主・長野信濃守を頼り落ち延びて行きます。長野氏の下での処遇を無念に感じていたところ、甲州武田氏に迎え入れられ、武田家の配下に入ります。天文15年(1546)幸隆は智略をもって村上勢を真田の居城へ引き入れて包囲し、村上方の精鋭500人を一人も残さず討ち取る武功をあげました。
優秀な家臣をことごとく失った村上義清は大いに怒り、翌天文16年8月24日、信州上田原で武田方と合戦を繰り広げました。この戦いは武田方の大勝利に終わり、村上義清は上杉氏を頼り越後へと逃げて行きました。そして同年10月19日、信州海野平にて晴信(武田信玄)と越後の景虎(上杉謙信)による合戦がおこりました。
このように、村上氏と真田氏の争いを中心に描きながら、川中島の戦いへ向かっていく様子が記されています(写真3)。
写真3 『真武内伝』より
天文年間、村上氏と真田氏の戦いを描く。
史実との違い
しかし、『真武内伝』に記された内容は、今日からみると多くの誤りが含まれていることがわかります。
まず、天文15年に真田幸隆が村上義清方の家臣500名を討ち取ったという出来事を裏付ける資料は、今日見出すことはできません。
また、上田原での合戦は天文16年に起こり、武田方の勝利で終わったとありますが、実際には上田原の合戦は天文17年に起こり、信玄が負傷するなど、武田方にとって負け戦だったのでした。
この上田原の戦いの他に、『真武内伝』には記述されていませんが、「戸石崩れ」とも呼ばれる天文19年の村上方拠点・戸石城での武田方の大敗を加えて、村上義清は信玄を二度も破ったのでした。一体なぜ『真武内伝』では、これまでみてきたような書かれ方をしているのでしょう。
『甲陽軍鑑』の存在
江戸時代に多く読まれた書物のひとつに『甲陽軍鑑』があります(写真4)。武田信玄を中心に、業績や兵法、武士の心構えを記したもので、江戸時代はじめ、武田家旧臣の子・小幡景憲がまとめたと考えられています。
そのような『甲陽軍鑑』の内に、上田原の合戦を記した箇所がありますが、そこには天文16年の出来事として「信州上田原へ出、八月廿四日辰の刻に、甲州方より合戦を始むる」と記されています。天文16年8月24日。『真武内伝』に記された日付と一致します。このことから、『真武内伝』の内容は『甲陽軍鑑』から強い影響を受けていることがわかります。
『甲陽軍鑑』に影響を受けたものは『真武内伝』だけではありません。江戸時代以降著されてきた、川中島の戦いに関する書物のほとんどが、その影響を受けているといえるでしょう。
写真4 『甲陽軍艦』(真田宝物館蔵)。
まとめ
武田氏による信濃侵攻から、川中島の戦いと経て、信濃の武将たちはそれぞれのあり方について、大きな変化を遂げました。地方の一豪族であった真田氏は武田家家臣に取り立てられると家中で頭角を現していき、武田家滅亡の後は遂に大名の身分にまで上り詰めていきました。一方、信濃国において守護と並ぶほどの力を持っていた村上氏は、武田氏の侵攻を防ぎきれず越後へと移り、義清は越後根知城で客死したといわれます。
江戸時代を迎えた後、『甲陽軍鑑』やそれに影響を受けた書物を通して、人々は川中島の戦いについて触れました。そこには、史実とはいささか異なる様子が描かれていましたが、川中島の戦いを引き起こした遠因として、真田・村上の両氏の姿が描かれていたのでした。