長野の燃える水
1.はじめに
長野市街地から戸隠へ向かう途中の浅川ループライン道路脇にあづま屋があります。この中には、石油を掘るための石油井戸があり、かつて、ここで石油がくみ上げられていました(図1)。今回は、長野市の石油の歴史について紹介します。
図1:浅川石油井戸にある、石油をくみ取るためのモーター(上)
と浅川産の石油(長野市立博物館蔵)(下)。
2.長野市の石油の歴史
2-1.江戸時代の石油
浅川真光寺(長野市)の石油産出が最初に文献に登場するのは、江戸時代(1753年)に出版された「千曲之真砂」です。「檀田村という所に、地中より油湧出る所有、山沢の水辺に井有、これを集めて灯す也」とあり、この時代には、石油が利用されていたことがわかります。また、19世紀初めに執筆された「信濃奇勝録」には、浅川の岸辺の石油井戸が描かれています。(図2)。
1847年5月8日(旧暦3月24日)午後10時頃、長野盆地の直下を震源とする大きな地震が起こりました。推定マグニチュードは7.4、善光寺付近では火災も多く発生し、家の8割が失われました。御開帳のため、善光寺には多くの参拝者が訪れており、多くの人もの死者が出ました(図3)。この地震は善光寺地震と呼ばれ、江戸時代以降、長野市近隣で起こった最大規模の地震とされています。
善光寺地震が発生した後、浅川の河川敷から石油や天然ガスが出たことが記録に残っています(図4)。その後、真光寺村の新井藤左衛門は浅川の石油に注目し、1854年から井戸を掘り始め、1856年に石油の採掘に成功します。
図2:信濃奇勝録(長野市立博物館蔵)。
浅川の油井が描かれている。
図3:地震後世俗語之種(真田宝物館蔵)。
地震による建物の損壊と火災が描かれている。
図4:地震後世俗語之種(真田宝物館蔵)。
善光寺地震が発生した後、浅川の河川敷から石油や天然ガスが出たことが記録に残っている。この図には、石油や天然ガスを利用して火を焚いて風呂を沸かしている様子が描かれている。
2-2.長野石炭油会社の設立
明治に入ってすぐの1869年、新政府は鉱山の試掘を一般に開放し、鉱山ブームが起こります。その中で、今から約150年前の1871年8月、石坂周造がこの周辺の採掘権を買い取り、長野石炭油会社を設立しました。これが日本初の石油会社です。
石坂周造は、明治維新において活躍した山岡鉄舟の縁者で、幕末には新選組の前身、浪士組に加わるなど、尊王攘夷の志士として活動しました。明治に入り、石油に興味を持つようになり、石油業を始めます。石坂は長野市北石堂の刈萱山西光寺境内に石油精製所をつくります。伺去(しゃり)真光寺で掘った石油をここで精製していました。
1872年、長野石炭油会社は社名を長野石油会社へ変更します。新しい機械を購入し、アメリカ人技師を雇い、機械掘りを始めましたが、失敗に終わります。多額の投資を行ったものの経営は不振で、1878年、長野石油会社は倒産してしまいます。
2-3.長野市の石油の現在
その後、1888年に新潟県で大規模な油田が見つかるまで浅川の石油は珍重され、地元の人々によって手掘りの井戸で採油が続けられました。長野の特産品として当時の地理の教科書にも載っていました。大正・昭和と採油は続き、1920年には石油と天然ガスを燃料としたガラス工場の操業が始まりました。病院に納める薬の瓶やはえ捕り器などを製造していました(図5)。この工場は1967年に廃業しましたが、こちらで使用されていた石油井戸が冒頭で紹介したものです(図1)。
このように、長野の石油は50年前まで利用されましたが、現在は石油井戸の跡だけが残されています。国内では、秋田と新潟でわずかに採掘されるだけで、ほとんどの石油は輸入品です。
図5:ガラス工場で作られたガラス製品(長野市立博物館蔵)
3.なぜ、長野市で石油が出るのか?
世界的に見て、石油を大量に産出する地域は、中東や北米など一部に限られています。国内では、秋田や新潟など日本海側で石油が出ます。では、なぜこれらの地域から石油が出るのでしょうか。
石油は、海中でプランクトンの死骸などの有機物が泥と共に堆積し、地熱や圧力によって生成されたものと考えられています。液状になったものが石油、気体状になったものが天然ガスです。石油が多くできるのは、昔、酸素が乏しいよどんだ海だった場所です。日本海は、1000万年前に太平洋に接続する海峡が塞がって、水の出入りが少ないよどんだ海だった時代があったため、日本海側の新潟や秋田などでは、石油を含む地層が見られます。
浅川真光寺付近には、浅川泥岩層とよばれる1000万年ほど前の海底に堆積した地層が分布しています。この地層は秋田から新潟にかけて、石油を含む地層と同じ環境で、日本海が長野まで広がっていた時代のものです。この地層を裾花凝灰岩層が覆っています(図6)。凝灰岩は空隙が多いため、浅川泥岩層から染み出した石油は裾花凝灰岩層に貯まります。石油は水より軽いため、地表近くに集まってくるのです。
しかも、真光寺付近は長野盆地の西縁断層により隆起した部分(図6)で、石油がたまる地質構造となっていました。本来なら地下深くにあるはずの浅川泥岩層が地表に露出していた場所なので、善光寺地震で断層が大きく動いた影響で、一気に石油が噴出したのです。
図6:浅川付近の地層断面図。
浅川泥岩層から染み出した石油が裾花凝灰岩層に貯まる。
4. おわりに
長野市でかつて石油採掘が行われ、日本初の石油会社が設立されたことを紹介しました。長野の地下に石油が出るのは、この地域がかつて海だったことに由来します。わたしたちは、大地が経験してきた歴史の上で暮らしています。