地方武士の争い

 中世(12世紀末から16世紀)は武士の活躍した時代です。長野市内には武士団が割拠し、自らの土地を守り、広げるために時には守護や戦国大名と戦いました。市内では横田河原、漆田、大塔、川中島合戦が行われました。こうした戦は、その軍事力を支える農業や産業を発展させ、物や人の移動を活発にしました。
 市内の遺跡からは、中国製の陶器や銭、能登や尾張の陶器も出土しています。

古瀬戸天目茶碗(栗田城跡出土)

 

木簡(北土井下遺跡出土)

昭和58年(1983)、石地区の圃場整備事業に関わる緊急発掘調査により出土した。内8点が長野市指定有形文化財。指定の8点には墨書が確認されており、薄いヒノキ板製である。指定の8点の内、5点が平安時代末期で、「苗中□廿」「経為□□」の文字が確認される。3点は中世のものと推定され、「五月六日花押(署名者不明)」、「(大日如来を表す梵字)南」の文字が確認される。

大塔物語

大塔合戦の模様を71歳の僧堯深が書き写したものである。国人の反抗のため信濃統治に失敗した室町幕府は、応永6年(1399)秋、小笠原長秀を守護職に補任した。守護就任の折、領主などを召集したが、その際の振舞いがいたく反感をかい、9月に更級郡布施郷(長野市篠ノ井)にて小笠原勢と村上・仁科両氏を中心とする連合軍との間に紛争が起こった。

長尾忠景書状(落合家文書)

長野市松代町の落合家旧蔵資料〔落合文書〕の内。ウブな状態で残る貴重な中世文書である。これは、関東管領山内上杉氏家宰の総社長尾忠景が落合氏に発給した文書で、15世紀後半に出されたと考えられる。長野左衛門五郎の記載がある。長野氏に関連する史料は限られているため、そういった点からも貴重といえる。

鉄鍬形(博物館寄託、清水寺)

若穂・清水寺内の八将権現社に納められていたもので、征夷大将軍坂上田村麻呂の用いたものとされるが、確かではない。全体の形や象嵌の手法などから平安時代の作と考えられる。現存する鍬形の中では最も古いものの1つ。国重要文化財。

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