解説文(かいせつぶん)
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近江八幡(おうみはちまん)のまちが発展(はってん)した理由(りゆう)はいくつかありますが、八幡堀(はちまんぼり)の役割(やくわり)を欠(か)かすことはできません。堀(ほり)は城(しろ)を守(まも)るためにありますが、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は、この八幡堀(はちまんぼり)を運河(うんが)として利用(りよう)することをかんがえ、琵琶湖(びわこ)を行き交(か)う船(ふね)をすべて八幡(はちまん)のまちに立ちよるようにさせました。また、八幡山城下(はちまんやまじょうか)はかつての安土(あづち)と同じく、楽市楽座(らくいちらくざ)を取(と)り入れたことから、商人(しょうにん)のまちとしてにぎわいました。昭和(しょうわ)30年ごろになると、ドブ川のようになり、うめ立ての計画(けいかく)も持(も)ち上がりましたが、市民(しみん)が立ち上がり、清掃活動(せいそうかつどう)に取(と)り組(く)み、次第(しだい)にかつての姿(すがた)をとりもどすようになりました。現在(げんざい)、多くの観光客(かんこうきゃく)がおとずれ、時代劇(じだいげき)のロケ地(ち)としても使(つか)われています。
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