近江八幡市(おうみはちまんし)/近江八幡市歴史浪漫(おうみはちまんしれきしろまん)デジタルアーカイブ トップへ
中山道 (なかせんどう)名所一覧(めいしょいちらん)
住友財閥(すみともざいばつ)の第2代総理事(だいにだいそうりじ)となった伊庭貞剛(いばていごう)の生家(せいか)があった場所です。伊庭貞剛(いばていごう)は日本ではじめて環境問題(かんきょうもんだい)に取り組んだ実業家(じつぎょうか)でした。生家跡(せいかあと)は現在公園として整備(せいび)され、クスノキの大木が往時(おうじ)の面影(おもかげ)をのこしています。
近江鉄道万葉(おうみてつどうまんよう)あかね線(近江八幡-八日市)にある駅(えき)です。大正2年(1913)湖南鉄道(こなんてつどう)として開通(かいつう)した時から設置(せっち)されています。中山道武佐宿(なかせんどうむさじゅく)の西の入口ちかくに位置(いち)し、駅舎(えきしゃ)は町なみにあわせ瓦葺(かわらぶき)にデザインされています。
江戸時代(えどじだい)、宿場(しゅくば)におけるお触(ふ)れや、取(と)り決(き)め事などを公示(こうじ)する場所(ばしょ)として決(き)められた所(ところ)です。木の札(ふだ)に書(か)いて掲示(けいじ)し、通行(つうこう)する者が誰(だれ)でも見られるようになっています。武佐宿(むさじゅく)においては街道(かいどう)に面(めん)した、東西の出入り口2ケ所におかれていました。
応仁(おうにん)2年(1468)、六角政堯(ろっかくまさたか)によって築(きず)かれました。元亀(げんき)元年(1570)、柴田勝家(しばたかついえ)が六角義賢(ろっかくよしたか)に包囲(ほうい)された時、城内(じょうない)は食料(しょくりょう)や水が欠乏(けつぼう)して、これ以上の戦(たたか)いは不可能(ふかのう)となりました。勝家(かついえ)は、城兵(じょうへい)に水瓶(みずがめ)の水を飲(の)ませた後、その瓶(かめ)を割(わ)って兵(へい)の士気(しき)を鼓舞(こぶ)して戦(たたか)い、大勝(たいしょう)したことに由来(ゆらい)して、瓶割山城(かめわりやまじょう)といわれています。
八風街道(はっぷうかいどう)との交差点(こうさてん)の琵琶湖側(びわこがわ)に建(た)つ道標(どうひょう)です。「安土浄厳院道(あづちじょうごんいんみち)」の銘文(めいぶん)が刻(きざ)まれています。浄厳院(じょうごんいん)は、天正6年(1578)織田信長(おだのぶなが)によって建(た)てられたお寺です。
本陣(ほんじん)は参勤交代(さんきんこうたい)の大名(だいみょう)や幕府(ばくふ)の役人(やくにん)、公家(くげ)、皇族(こうぞく)などの宿泊施設(しゅくはくしせつ)として使われたところです。武佐宿(むさじゅく)では、下川七左衛門家(しもかわしちざえもんけ)の邸宅(ていたく)がこれにあてられました。現在(げんざい)残(のこ)っているのは、表門(おもてもん)と土蔵(どぞう)、庭園(ていえん)のみとなっています。跡地(あとち)に建(た)つ武佐郵便局(むさゆうびんきょく)は、瓦葺(かわらぶき)で街道筋(かいどうすじ)の町家風(まちやふう)の造(つく)りです。
浄厳院道(じょうごんいんみち)の道標(どうひょう)の対面(たいめん)に建(た)っています。「いせ道(みち)」とある他に、水口(みなくち)・日野(ひの)・八日市(ようかいち)と刻(きざ)まれています。ここは中山道(なかせんどう)から八日市(ようかいち)、伊勢方面(いせほうめん)への道、八風街道(はっぷうかいどう)との分岐点(ぶんきてん)でもありました。
明治(めいじ)19年建築(けんちく)の木造(もくぞう)2階(かい)建(だ)ての建物(たてもの)です。側面(そくめん)と背面(はいめん)に平屋(ひらや)が連続(れんぞく)している造(つく)りになっています。明治初期(めいじしょき)において、西洋建築(せいようけんちく)を取り入れる必要(ひつよう)があり、同舎(どうしゃ)も洋風(ようふう)な造(つく)りとなっています。現在(げんざい)は登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい)となっています。
聖徳太子(しょうとくたいし)が建(た)てたとされ、古くは「むさ寺」とよばれていました。南北朝内乱期(なんぼくちょうないらんき)には足利尊氏(あしかがたかうじ)とともに後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が避難(ひなん)した場所(ばしょ)で、室町幕府(むろまちばくふ)12代将軍(しょうぐん)足利義晴(あしかがよしはる)も京(きょう)の戦乱(せんらん)を避(さ)け居留(きょりゅう)しています。
長光寺境内(ちょうこうじけいだい)にある天然記念物(てんねんきねんぶつ)で、樹齢(じゅれい)はおよそ500~600年。高さ約(やく)15メートル、周囲(しゅうい)約(やく)3メートルの木で、同種(どうしゅ)の樹木(じゅもく)としては日本最南端(にほんさいなんたん)に生育(せいそく)し、聖徳太子(しょうとくたいし)が植(う)えたともいわれる伝説(でんせつ)の木です。
門(もん)の前には、後光厳院(ごこうごんいん)行在所(ぎょうざいしょ)の石碑(せきひ)が建(た)っています。明治11年(1878)明治天皇(めいじてんのう)が2度(ど)、昼食(ちゅうしょく)をとられました。
明和(めいわ)9年(1772)より武佐村(むさむら)の村社(そんしゃ)。中山道分間延絵図(なかせんどうぶんげんえんえず)では、市(いち)の守(まも)り神(がみ)である「市神(いちがみ)」と記(しる)されています。入口(いりぐち)ちかくには高札場(こうさつば)が設(もう)けられていました。武佐宿(むさじゅく)の東の端(はし)に位置(いち)しており、1月7日前後(ぜんご)に、集落(しゅうらく)へ邪悪(じゃあく)なものが入らないように勧請縄(かんじょうなわ)を飾(かざ)る行事(ぎょうじ)が、現在(げんざい)も続(つづ)けられています。
明治(めいじ)35年(1902)、西老蘇(にしおいそ)に生まれた、関西(かんさい)を代表(だいひょう)する詩人(しじん)です。出身校(しゅっしんこう)である老蘇(おいそ)小学校内には動植物(どうしょくぶつ)とのコミュニケーションを通じて平和(へいわ)を訴(うった)えた多喜三郎(たきさぶろう)の詩碑(しひ)がたっています。
平安時代(へいあんじだい)から和歌(わか)などによまれた歌所(うたどころ)として知られています。国指定(くにしてい)の史跡(しせき)で、往時(おうじ)は現在(げんざい)の数倍(すうばい)の大森林(だいしんりん)でした。
延喜式(えんぎしき)の神名帳(しんみょうちょう)に記(しる)され延長(えんちょう)5年(927)より昔(むかし)にさかのぼる歴史があります。天正(てんしょう)9年(1581)に織田信長(おだのぶなが)の命(めい)で再建(さいけん)されたとされる本殿(ほんでん)は桧皮葺(ひわだぶき)をもつ国指定(くにしてい)の重要文化財(じゅうようぶんかざい)で、そのほか多くの指定文化財(していぶんかざい)があります。
近江(おうみ)の守護大名(しゅごだいみょう)・佐々木六角(ささきろっかく)氏(し)の時代(じだい)に発達(はったつ)した自治組織(じちそしき)「惣村(そうそん)」のえいきょうは、現代(げんだい)のくらしの中にも強くのこっています。年のはじめには、集落内(しゅうらくない)に邪悪(じゃあく)なものが入りこまないようにと『勧請縄(かんじょうなわ)』がかかげられます。老蘇(おいそ)近隣(きんりん)に色濃(いろこ)くのこされた伝統(でんとう)・文化行事(ぶんかぎょうじ)で、毎年(まいとし)1月8日の西老蘇(にしおいそ)の魔邪羅講(マジャラコ)が有名です。
飛鳥時代(あすかじだい)、聖徳太子(しょうとくたいし)がこの山の南裏に瓦屋寺(かわやじ)をたてられた時、岩戸山(いわとやま)に金色の光を発(はっ)するふしぎな岩(いわ)を見つけ、太子(たいし)自(みずか)らの爪(つめ)で13体の仏(ほとけ)を刻(きざ)まれたといわれています。毎年4月24日にちかい日曜日に千日会(せんにちえ)が営(いとな)まれ開帳(かいちょう)されます。
織田信長(おだのぶなが)がかつやくした時代(じだい)に先行(せんこう)する天文(てんぶん)18年(1549)、近江(おうみ)の守護大名(しゅごだいみょう)・佐々木六角(ささきろっかく)氏(し)の奉行人(ぶぎょうにん)が発行(はっこう)した文書に「紙商売(かみしょうばい)の事、石寺新市(いしでらしんいち)の義(ぎ)、楽市(らくいち)たる条(じょう)、是非(ぜひ)に及(およ)ばず」とする史料(しりょう)がのこっており、この史料(しりょう)から現在(げんざい)の石寺(いしでら)の地にわが国最初(さいしょ)の楽市(らくいち)があったとされています。
室町時代(むろまちじだい)、近江(おうみ)守護大名(しゅごだいみょう)佐々木六角(ささきろっかく)氏(し)が標高(ひょうこう)432mの繖山(きぬがさやま)に築(きず)いた居城跡(きょじょうあと)です。山の麓(ふもと)から山頂(さんちょう)まで多くの郭(かく)が広がり、この時代(じだい)の山城(やまじろ)にはめずらしく石垣(いしがき)が多用(たよう)されています。
西国(さいごく)三十三所観音霊場(さんじゅうさんしょかんのうれいじょう)のひとつで、第三十二番札所(ふだしょ)。聖徳太子(しょうとくたいし)が人魚(にんぎょ)のねがいをきき、伽藍(がらん)をたて、太子(たいし)自(みずか)らが千手観音像(せんじゅかんのんぞう)を刻(きざ)み本尊(ほんぞん)として、菩提(ぼだい)を弔(とむら)ったのが始まりとされています。
聖徳太子により推古13年(605)に開かれたと伝わり、寺名の『教林(きょうりん)』は太子(たいし)が境内(けいだい)の林の中で教(おし)えをとかれたことに由来(ゆらい)しています。書院(しょいん)に面(めん)する庭園(ていえん)は、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作といわれる桃山時代(ももやまじだい)を代表(だいひょう)する池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の名勝庭園(めいしょうていえん)です。
江戸時代(えどじだい)の五街道(ごかいどう)の一つで、江戸(えど)、日本橋(にほんばし)を出発点(しゅっぱつてん)として京都(きょうと)までつづく街道(かいどう)です。将軍(しょうぐん)吉宗(よしむね)の時代(じだい)には、享保(きょうほ)14年(1729)6月にベトナムから来た象(ぞう)が通(とお)ったとの記録(きろく)もあります。近江八幡市内(おうみはちまんしない)では、老蘇(おいそ)、武佐(むさ)、馬淵(まぶち)学区(がっく)を通(とお)っており、古くからの街道(かいどう)として、今でも古い家並(いえなみ)や石の道標(どうひょう)がその名残(なごり)をとどめています。