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(七)乾峰士曇

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 士曇字は乾峰、一に少雲と稱した。【聖一國師の法孫】圓爾辯圓(聖一國師)三世の法孫である。筑前博多の人、弘安八年を以て生れた。十四歳にして承天寺に入り、南山士雲に侍して、鎌倉の諸刹に遊び、應長元年南山に從つて東福寺に居つたが、去つて淨智寺の佛國禪師に參禪した。偶々明極楚俊の來つて建長寺に住するを聞き、錫を掛けて參禪した。明極其人物の非凡なるを知り、之を版首とした。元弘の亂に難を避けて、上野の山院に寓居し、同三年十一月明極を南禪寺に訪ひ、首座となつて分座説法した。後相模に歸つて建長寺に居つたが、請を承けて同國の崇壽寺に出世し、尋いで京都の普門、安禪、東福及び南禪の諸寺、相模の圓覺、建長の兩寺等に歷住した。(乾峰和尚行狀、本朝高僧傳第三十)元弘二年前太政大臣洞院公賢大檀越となり、【海會寺開山】堺に海會寺を創建するに當り、士曇は其第一祖となつた。(園太曆、海會禪寺由緖略記)此時乾峰寺地に水無きを憂えたが、【金龍井の由來】金面の龍王出現し、鵜の羽を地に指し、露の多く浮ぶ方に井を掘れと教へた。和尚其言の如く井を掘ると、清泉忽ち涌き出たと傳へられて居る。井は今海會寺の舊址開口神社西門の側にあり、金龍井或は海會寺井と稱し、堺名井の一に數へられてゐる。(海會禪寺由緖略記、堺鑑中、泉州志卷之一、金龍井記)同十年勅を受けて參内し、【宮中に法筵を開く】清涼殿に於て法筵を開き、大に聖旨に契つた。藤原公賢は菩提院を南禪寺に創して、師の壽塔とした。十六年十二月十一日東福寺に於て偈を書し、「馬鳴出西天、龍樹入東海、聖箭已離弦、猶有返囘勢」と。筆を投じて示寂した。世壽七十七。法臘六十四。遺骸を菩提院に葬つた。【著書】著作に見性義記幷に拔關要若干卷及び語錄五卷がある。【國師號敕諡】翌年廣智國師の徽號を敕諡せられた。(乾蜂和尚行狀、本朝高僧傳卷三十)