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(二二)養叟宗頥

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 宗頥字は養叟。法を華叟宗曇に嗣いだ。(紫巖譜略)京都の人、或は播磨揖西郡の人ともいふ。俗姓は藤氏。八歳にして東福寺正覺菴の九峯奏の弟子となり、又土佐に往いて、吸江寺の大周の門に入つた。後再び建仁寺に還り、【華叟に就く】華叟の道風を聞き、近江の禪興庵に至つて之に就くもの十六年、悉く玄旨を究めて印記を得、法衣幷に養叟の二字を附與せられた。華叟の遷化に當り、大德寺中に大用庵を新營し、華叟の塔を建て、且つ奏請して、大機弘宗禪師の追諡を得た。(龍寶山大德寺世譜)後花園天皇道譽を聞き、勅旨して文安二年八月大德寺に入らしめ、其第二十六世となつた。(紫巖譜略、本朝高僧傳卷第四十一)次いで紀伊の贄川氏は德禪院を建て、養叟を請して第一祖とした。後細川勝元の招きにより、再び大德寺に歸つた。偶々同寺囘祿の災に罹つたので、全力を擧げて復舊に竭し、庫裡、法堂等、日ならずして再築せられた。(龍寶山大德禪寺世譜)後花園天皇召して禪旨を問はれ、應答其旨に契ひ、(紫巖譜略)康正三年九月特に宗慧大照禪師の號を下賜せられた。これ大德寺の住持に禪師號を特賜せらるゝ始めである。(紫巖譜略、本朝高僧傳卷第四十一、龍寶山大德禪寺世譜)【陽春庵在住】享德三年堺の陽春庵に住し、道場とした。(東海一休和尚年譜)長祿二年六月二十七日示寂した。春秋八十三、法臘六十七。(龍寶山大德禪寺世譜)

第七圖版 陽春庵寄進狀