宗頥字は
養叟。法を華叟宗曇に嗣いだ。(紫巖譜略)京都の人、或は播磨揖西郡の人ともいふ。俗姓は藤氏。八歳にして東福寺
正覺菴の九峯奏の弟子となり、又土佐に往いて、
吸江寺の大周の門に入つた。後再び建仁寺に還り、【華叟に就く】華叟の道風を聞き、近江の禪興庵に至つて之に就くもの十六年、悉く玄旨を究めて印記を得、法衣幷に
養叟の二字を附與せられた。華叟の遷化に當り、
大德寺中に大用庵を新營し、華叟の塔を建て、且つ奏請して、大機弘宗禪師の追諡を得た。(龍寶山
大德寺世譜)
後花園天皇其
道譽を聞き、勅旨して文安二年八月
大德寺に入らしめ、其第二十六世となつた。(紫巖譜略、本朝高僧傳卷第四十一)次いで紀伊の贄川氏は德禪院を建て、
養叟を請して第一祖とした。後細川勝元の招きにより、再び
大德寺に歸つた。偶々同寺囘祿の災に罹つたので、全力を擧げて復舊に竭し、庫裡、法堂等、日ならずして再築せられた。(龍寶山大德禪寺世譜)
後花園天皇召して禪旨を問はれ、應答其旨に契ひ、(紫巖譜略)康正三年九月特に
宗慧大照禪師の號を下賜せられた。これ
大德寺の住持に禪師號を特賜せらるゝ始めである。(紫巖譜略、本朝高僧傳卷第四十一、龍寶山大德禪寺世譜)【
陽春庵在住】享德三年堺の
陽春庵に住し、道場とした。(東海
一休和尚年譜)長祿二年六月二十七日示寂した。春秋八十三、法臘六十七。(龍寶山大德禪寺世譜)
第七圖版 陽春庵寄進狀