ビューア該当ページ

(二六)日親

54 ~ 56 / 897ページ
 日親は應永十四年上總武射郡埴谷村に生る。父は埴谷平次左近將監、幼にして埴谷の妙宣寺に入り十四歳正中山法華寺の第六世日暹に就いて得度し、名を日親と改めた。經典の硏鑽倦むことなく、よく諸宗の法門に通曉した。十九歳出でゝ肥前國光勝寺の總導師職に補せられたが、【宗風の衰へ】時恰も宗風漸く衰へ祖師日蓮の偉業正に地に墜ちんとするを見て、振興の念を立て、先づ身體の鍛鍊に力め、中山に歸り、廟所卵塔前に座し、蚊蚋に蟄され、禽獸に脅かされつゝ、百日間、自我偈を誦し、不惜身命の志彌々堅く、一日に一爪を拔き、十日に十爪を拔き盡し、兩腕を熱湯に浸して苦痛を忍んだ。【爪切曼荼羅】此時手指の熱血で書いた本尊を爪切の曼荼羅と云はれてゐる。斯くして深き決心の下に應永三十四年上洛し、二月一條戾橋の邊に立ち、獅子吼を試みた。(日親上人德行記、本化別頭佛祖統記)こゝに於て他宗の僧俗之を誹謗し、【迫害と歸依】法難の危害は將に其身に迫らんとしたが、又敬虔なる信者を得て一乘寺の草庵に益々妙經を宣布した。斯くして更らに妙法の大幢を翳し西國を化度し、同十一年將軍足利義教に上書して、一切の邪宗門を禁制して一乘妙法に歸依せんことを勸め、又立正治國論一卷を草して上書せんとするや、遂に禁獄せらるゝもの一年、あらゆる迫害を受けたが毫も屈しなかつた。【冠鐺日親】冠鐺日親の名もこゝに起つたのである。出獄の後亦盛んに中國、九州、北陸を行化し、文安元年十一月播磨東條の危難を免がれ、【堺の來化】再生の思ひをなして堺中之町濱に來着した。卽ち篤信者桔梗屋重兵衞に倚り、其喜捨を受けて堺南樽屋町に登寶山本成寺を建立し、南方教化の道場となし、長祿元年五十一歳自像を彫刻して同寺に安置し、其後京都の本法寺在住中脱落した齒牙一個を像中に納めた。【生御影】世人之を生御影と稱して尊崇した。(日親上人一代記傳)斯くして長享二年九月十七日世壽八十二歳を以て示寂した。日親二十一歳より八十一歳に至る六十一年間に、鎌倉から京都に上ること十五度、西國に九度、北陸に往返すること六囘、三十六寺院を建立し、公武を諫爭すること八囘、他宗と論爭するもの六十六囘の多きに及んだ。(日親上人德行記)【著書】著述に折伏正義記、埴谷抄、傳燈抄、一生修行記、本尊相承抄、本法寺綠起、御祈禱經抄、立正治國論等がある。(日宗著述目錄)

第十一圖版 一休畫像