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(四三)玄譽永徹

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 玄譽永徹は黃蓮社と號した。久我豐通の子で、宇治平等院の教譽行然に師事して其法を嗣ぎ、(淨土傳燈總系譜)同寺に住すること二十四年、(專修寺由緖書)天文十三年和泉の綾井(現泉北郡取石村大字綾井)に專稱寺を建て、自像を彫刻して此處に安置した。【西向寺建立】曾て堺に來つて西向寺(現戎之町東四丁)を建立し、淨土易行の法門を開いて道俗を化導し、【船夫の參詣】入港船舶の船夫までも參詣して德化に浴した。永祿元年六十三歳、【專修寺創建】專修寺(神明町東二丁に其遺址がある)を創剏して其開山となつた。是に於て教化彌々加はり、法筵の慈雨に沾ふものが甚だ多かつた。始め行脚して大阪の一心寺に至つたが、宗祖法然の遺蹟荒壞に委せるを見て、【一心寺再興】淨財を抛つて再興の功を終つた。住持の比丘感激して、【難波名號】什寶法然自筆の名號一幅を贈つた。今に傳へて寺寶として珍襲してゐるもので、名號の左右に「あみだふといふより外は津のくにのなにはのこともあしかりぬへし」との、一首の和歌が記されて居る。故に世に之を難波の名號と稱するのである。天正五年五月二十七日世壽八十二歳を以て入寂した。(堺鑑中)

第十七圖版 玄譽木像