長谷川藤廣は通稱を左兵衞といふ。【長崎奉行】慶長八年始めて德川家康に仕へ、同十一年より十九年に至る間長崎奉行を勤め、(寬政重修諸家譜卷第七百九十五)專ら外交の衝に當つた。【切支丹教徒放逐】其間十四年十二月には肥前日野江城主有馬晴信と共に、阿媽港船を擊破し、十九年には幕命を受けて肥前國有馬に抵り、切支丹教徒放逐の任に當り、(通航一覽卷百九十二、日本西教史下、本光國師日記十三)同年十月家康西國の兵を率ゐて大阪に來り會せしむるや、藤廣諸將に命を傳へ、(寬政修諸家譜卷第七百九十五)十一月大阪に至り、家康に謁した。【和蘭の大砲を大阪の役に使用す】是より先き、家康大砲を和蘭人に徵したので藤廣謁見の際、大砲の到着近きにあるべき事並びに耶蘇教徒追放の事等を復命した。(通航一覽卷二百四十五、大阪冬陣記)此大砲は大阪役に利用せられ、當時堺津に滯留して居つた和蘭人をして發射の任に當らしめた。(通航一覽卷二百四十六)【長崎奉行兼堺奉行】斯くして十二月藤廣は堺奉行柴山正親の後を襲ぎ、長崎奉行並びに堺奉行を兼ねた。堺は貿易上長崎と密接なる關係があつたからである。(大阪冬陣記)【堺復興の着手】既にして戰中大野道犬の堺市街を擧げて兵火に委するや復興の命を受け、元和元年正月先づ堺廻十四ヶ村農民の戰禍を避けて四方に散亂せるものを還住せしめ、去年の貢賦を免じ、各々選むところに任せて歸農すべき旨を令し、(長谷川左兵衞下知狀)六月から町割を定めて營造に力めた。(本光國師日記十七)【念佛寺梵鐘新鑄】密乘山念佛寺再興の際には藤廣は梵鐘を新鑄して之を寄進し、三年三月竣成した。(堺本派本願寺別院鐘銘)同年十月二十六日享年五十歳を以て歿した。【墓所】法名秀月盛白、近江坂本西教寺に葬つた。(寬政重修諸家譜卷第七百九十五)