ビューア該当ページ

(二四)堀山順之

195 ~ 196 / 897ページ
 堀山順之助左衞門と稱した。其先は大和筒井の一族であつたが、之を諱んで堀山氏を稱した。父又彦幕府に仕ふるに及び、順之亦之に隨ふて出仕した。【木下順菴に學ぶ】歳二十始めて學に志し、當時木下順菴江戸に教授し、其名を馳するや、仕を罷めて順菴に從游し、篤行を以て聞こえた。【京都の番衞】寶永六年六月中御門天皇御受禪に際し、順之等選ばれて上洛し、番衞の任に服した。是歳十二月東山上皇崩御し、翌年春山陵の事訖り、衞士等皆江戸に歸つた。【堺奉行所附與力】正德元年新堺奉行淺野長恆に從ひ、與力となり、數職に歷任しよく力を其職に竭し、市民皆人を得たるを喜んだ。新井白石とは同門の士で、交誼を重ぬること三十六年に及んでゐる。【墓所】在職四年享保十年正月十二日享年五十六歳を以て歿し、安養寺に葬つた。法號を樂山環州居士と云ふ。始め罹病に際し、奉行其吏をして、日々病狀を訪はしめ、卒去の際には自ら邸に莅んで之を弔ふた。【白石撰文の墓碑】墓碣銘は白石の撰文に係つてゐる。(墓誌)