渡邊慈齋諱は雅、字は民雄、又八郞と稱した。大阪の與力桑原某の子で、堺の與力渡邊國雄に子養せられた。【廉潔、明敏】慈齋職に在つて自ら持すること廉潔、毫も請託を受けず、囚人に就いて口書を筆記するに、筆端流るゝが如く、起稿後は一字の改刪をも施さず、人皆明敏を稱した。奉行三宅長門守康哉の信任厚く、慈齋亦己を知るものとし、赤心を披瀝して、力を吏務に盡した。文政三年二月奉行の卒去に遭ひ、知己の再遇を得難しとし、遂に病と稱して其職を辭した。時に歳四十九。致仕の後は慈齋と號し、名勝を探るを以て樂みとした。曾て長崎遊行に際し、從者輿を傭ひ其賃錢を與ふること酷だ少なかつたので、【逸話】私事の旅行に官吏と同樣の傭錢を與ふべきものにあらざる旨を諭して賃錢を增加したと云ふ逸話は、性行の率直なる一端を示してゐる。【墓所】嘉永元年五月十八日享年七十七歳を以て病歿し、南宗寺の塔頭本源院先塋の次に葬つた。【人と爲り】慈齋人と爲り和平、酒宴中と雖未だ嘗て容儀を紊さず、每歳末には必ず米錢を貧民に施與した。【諸技に通ず】少壯武藝を學び、特に砲術を善くし、傍ら蹴鞠、茶湯、俳諧其他雜技等に至るまで、皆得るところがあつた。緣族篠山藩士石田子篤(字は子敬)を養ふて嗣となし、女を以て娶はした。(小山堂文鈔卷之下)