ビューア該当ページ

(八五)大心義統

252 ~ 253 / 897ページ
 義統字は大心巨妙子と號した。又金剛童蓮童蓮華庵等の別號がある。(紫巖譜略)俗姓は下村氏、明曆三年京都に生れた。【天倫和尚の俗姪】寬文六年大德寺清凉院に入り、舅天倫宗忽に師事し、翌年二月薙髮、延寶八年正月墨江の快圓律師に菩薩戒を受けた。既にして四月宗門十勝論を講じ、天和三年四月佛誕日に比丘戒を受けた。(前住大德本刹中興大心大和尚世記)貞享三年始めて高桐院の輪番職となり(續日本高僧傳卷第十一)【禪樂寺三世】元祿二年法兄且つ舅である堺不盡菴の住職(再興二世)覺印義諦の示寂に際し、同菴に入り中興第三世となり、元祿十年八月官に請うて禪樂寺と改稱した。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)檀信徒中村庸雄資財を傾けて、諸宇の經營に力を盡した。【堂宇の經營】又釋迦像及び大藏經を支那に求め、殿堂を建てゝ龍護窟と稱し、傍に一小宇を造り、藏經を閲する者の居室に充て、之を轉全と稱し、次に鐘樓を構え、鐘を懸けて廓多樓と號した。又衆寮を絶學と名づけ、觀音菩薩、帝釋天及び宗祖菩提達磨の像を彫刻せしめて之を法事堂に安置し、寢室を默雷、庫裡を正命、寺門を慈悲世界と稱した。こゝに於て寺觀整備し、輪奐の美亦觀るべきものがあつた。(前住大德本刹中興大心大和尚墓記)元祿十年六月其師天倫示寂に際し、七七日の法要を嚴修し、越えて三年檀越塔を禪樂寺不盡菴)に營み、塔に題して勅諡國英法鑑禪師天倫宗忽和尚之塔と稱した。(紫嚴譜略、前住大德本刹中興大心大和尚墓記)【大德寺住職】寶永三年二月大德寺第二百七十三世の住職となり、次いで諸寺に歷任し、六年九月東海寺の輪番となつた。(紫嚴譜略)【三次濟餓會を開く】義統資性眞率貴賤を問はず、三たび濟餓會を開き、其飢餓を免がれた者は幾千人なることを知らず、又出入每に從僕をして錢を路傍の乞丐に與へしめた。【詩書を善くす】讀誦の餘暇には著述を事とし、(前住大德本刹中興大心大和尚墓記)又詩書を能くした。(日本書畫名家編年史卷四上)【遺偈】【墓所】享保十五年三月疾に罹り、六月四日「七十四年、驢脚佛手、驀過那邊、鐵圍奔走」の一偈を示し、七日に至り、終に禪樂寺默雷の室に於て示寂し、全身を本刹先師の眞側に瘞めた。具足戒弟子四十人、菩薩弟子六百人、其他當師の受戒者頗る多數に達した。著作に靈會日鑑、禮敬三寶説等三十餘部あり、諸人に與へた書籍六萬二千三百五十一本に達したと云はれてゐる。(前住大德本刹中興大心大和尚墓記)