ビューア該当ページ

(一〇七)性海

270 ~ 271 / 897ページ
 【萬福寺住職】性海一名道超、明和二年越中射水郡樂入寺に生れ、後堺萬福寺(現九間町東二丁)の住職となつた。少壯學に志して諸國を遊歷し、叡山、豐山に登り、天台及び性相を學び、又淨信院道隱に師事して宗乘を學び、其衣鉢を傳へた。文政五年の安居に讚阿彌陀偈を副講し、翌年の安居及び本講に正信偈を講じた。【西本願寺の勸學】七年五月學林始めて勸學職を置くに及び、擢んでられて其職に補せられた。(眞宗學苑談叢後編)學殖深遠、堺空華學派の旗幟を立てた。是より先、越中浦山善巧寺の僧鎔、空華と號した。學成つて鄕里に歸り、私塾を開いて空華學舍と稱した。僧鎔の上足に柔遠、道隱の二哲があつた。柔遠は越中新川郡高柳明樂寺の住職で、師僧鎔の宗學を承け、眷々として師説を服膺し、遺漏を補足しつゝあつた。道隱は薩摩の人で、河内國西念寺に住したが、學説は柔遠と同じく僧鎔に承け、之を柔遠に比較すると一段の進步があつた。【堺空華學派の始祖】性海其門に學んで道隱、柔遠の學説を比較硏究し、遂に堺空華の一派を爲した。玆に於て、柔遠の派を呼ぶには越中空華の名を以てした。空華派は斯くの如く堺、越中の兩派に分れたが、關西に空華學派の隆盛を來たしたのは、實に性海の力多きに居るのである。(眞宗全史)性海性廉潔にして自ら奉ずること薄く、粗服を着し、講義の草稿は、多くは嚫施の封紙を以てし、餘財あれば之を佛事又は教學の資とし、他事に費さなかつた。講演は汎く三經及び諸典に涉つたが、其得意としたものは、觀經、同四帖疏及び選擇集であつた。行信論に至つては、最も精緻を極め、自坊の寮舍及び隣寺には常に數十の學侶之に寓して講筵に陪した。晚年中風症に罹り、臥床九年、言語澁滯したが、學侶の法門を問ふものあるときは、詢々として倦むことを知らず、若し其義の幽玄に涉り、其説の佳境に入るときは、喜び極まつて涕を流したと云ふことである。【門下の俊足】門下の俊足には、肥前藤津郡白馬光嚴寺の寒淵、播磨室津寂靜寺の海音、肥後山鹿郡新町大光寺の寬寧等がある。天保九年正月享年七十四歳を以て示寂した。(眞宗學苑談叢後編)諡して乘誓院といふ。【著述】著書に囘願遠錄四卷、本典講記、淨土論服膺記二卷、阿彌陀偈記三卷等があり、玄義分、選擇集、愚禿鈔、唯觀經、如來會、二門偈等の講義筆記は寫本として流布してゐる。(眞宗學苑談叢初編)