大坂屋市郞兵衞名は常定、代々大小路在住の富豪であつたが、中ごろ家産頗る衰へ、居を大町の濱に徙した。【大阪屋の再興】爾來勤儉力行再び家道を恢復した。然も當
時堺は海砂海港を埋めて市況衰微、漸く寬政五年二月河港を穿ちて運輸に便せんとし、秋に至つて始めて竣工した際であつた。(上條公美撰住吉橋記)【住吉橋架設】常定此時に當り、祖先追福の爲め資を投じて獨力を以て一板橋を架して更らに交通に便した。住吉橋卽ち之である。(上條公美撰住吉橋記、文化十年手鑑)蓋し、神功皇后の古傳説に因つて命名せられたのである。與力上條作之右衞門爲に住吉橋の記を作つて之に贈つた。(上條公美撰住吉橋記)歿年世壽は詳かでない。