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(一六七)南 正會

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 南正會通稱は孫太夫、始め伊右衞門、後權太夫と稱し、又孫太夫と改め、道節と號した。【南家十一代】孫太夫正長の嫡男で、家督を繼いで同家の十一世となつた。【家系】南氏は其先、武藏源氏逸見冠者黑源太清光に出で其後裔安井清太郞元光、伯耆米子城主に仕へ、其子清五郞正利に至り、天正年中攝津平野鄕に移り、後更に居を堺に轉じた。【正之舳松順に住す】其嫡男助左衞門正之に至り、堺寺地町筋東卽ち舳松に住した。既に文祿四年の古檢地帳の寫にも、助左衞門分と見えてゐる。【南氏の稱呼】南莊鄕役を支配したので、南氏を稱するに至つた。元和八年八月二十一日卒去。四世を孫兵衞正秋、五世を孫太夫正次と稱した。【歷代】爾後或は孫太夫、儀左衞門、孫次郞などゝ稱したこともあつたが、第十世正長が孫太夫を稱してより以後は、代々孫太夫を襲名することゝなつた。
 【正會の修養】【系譜綱目の編輯】正會好學、茶湯に達し、兼ねて易理に通じ、崇佛の心厚く、三十五歳中筋村の里正に擧げられ、村治に力め、性周密にして、襲歳の文書多くは其手によつて整理せられ、系譜綱目を編輯して、自家はもとより、傍系に至るまで、來歷、系統、變遷等を明かにし、以て後世子孫に傳へた。【交友】交るところ、儒者には高志羪浩の高足萬代文軌、僧侶には禪樂寺獨庵、興正寺の能化知空等があつた。(老圃歷史、南氏文書)文政二年四月七日享年八十歳を以て歿した。
 【三世以來庄屋となる】南家は三世助左衞門正之以來代々殆ど連綿として、中筋村の里正に擧げられ、以て維新後に至つた。其間時には舳松村を兼役したこともあつた。(南氏系譜綱目、茅溟刺吏鑑、老圃歷史、南氏文書、南氏記錄)