【
齋泉の弟】谷忍齋諱は通統、通稱を
久右衞門といひ、善兵衞善德の二男で、善右衞門齊泉の弟である。(谷氏德惠傳)【有職故實に通ず】學和漢を兼ね、香花兩道に達し、壺井義知に就いて有職故實を學び、獨自の硏鑽があり、就學のもの多く、大阪茶臼山
觀音寺の朗湛は、其高足である。(官令位私考、職原抄講談の誓詞)【神佛崇敬】【各寺緣起の再興】寶永三年兄弟相謀つて、柳之町林昌守の客殿、方丈、庫裏等を改造し、享保七年
向泉寺の囘祿に際し、燒損せる
安産如意輪觀音の緣起を復し、又同十三年には新に
向泉寺の緣起を作り、高辻中納言總長の染筆を乞ひ、裱裝して同寺に寄進した。更らに
常樂寺天滿宮の緣起は、青蓮院宮尊圓法親王の染筆であつたが、これより先き元和の兵燹に罹つて燒失したので、忍齋あらゆる史料を蒐集して、原稿を作り、十五年春二月伏見宮二品貞建親王の染筆を得て、先づ上卷一軸を作り、下卷は十四年六月
寶鏡寺宮德巖理豐内親王の筆、十九年四月十二日青蓮院宮二品尊祐親王の外題、同五月二十七日五條中納言爲範、同九月四日外山參議藤原光和の奧書、内箱は同月十二日高辻侍從冬長の書を得て、之を同寺に寄進した。(谷氏德惠傳)曾て兄善右衞門は天神の境内に一香木を得、又家に一香木を傳來した。忍齋在京の際卽ち享保十七年九月前者は誰が袖、後者は長月の銘を、日野前大納言資時に得、其記を作り、一を
香木誰が袖の記、他を
香木長月の記と稱した。(
香木誰が袖の記、
香木長月の記)【著作】有職故實及び花香兩道に關する謄寫の典籍頗る多く、別に
官位令私考等の著作がある。延享元年十二月五日歿し、
林昌寺に葬つた。(
林昌寺過去帳)法號を忍齋善愼禪門といふ。(墓表)
第六十二圖版 谷忍齋書狀