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(一八三)柴田鳩翁

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 柴田鳩翁は石門の流を汲んだ著名の心學者である。奈良物屋吉兵衞の子、天明三年五月五日京都堺町姊小路上る所で生れた。【經歷】幼名吉十郞、後謙藏と改め、失明後剃髮して鳩翁と稱した。十一歳呉服商の徒弟となり、寬政十年十六歳の時、父を喪ひ、翌年母亦歿し、爾後流離艱難の間に人と爲つた。其間假名草紙を耽讀し、二十八歳眉山と號して、始めて軍書講談を試み、玆に天分を見出した。文政元年三十六歳の時、十川小市郞に就いて始めて經學を修め、講談の傍ら經書を講じ、三十九歳今出川時習舍の都講前川(和久屋)正右衞門の勸めにより、始めて石田梅巖の著書都鄙問答を讀み、遂に時習舍の薩埵德軒(與左衞門)に就いて心學を修め、大に發明するところあり、明倫舍に於て斷書を受くるに至つた。翌年江戸牛込瑞松寺及び大阪難波鐵眼寺の住職であつた鳴瀧泉谷法藏寺の連峯和尚に禪を學び、禪學と心學とは、名異にして實の同じきものあるを觀じ、文政八年、野史講談を廢して專ら講説に從ふた。【堺庸行舍に講說】斯くして同九年十一月、明倫舍に於て、心學講師の印鑑を受け、四十五歳の八月には全く明を失つたが毫も教化の業を弛めず、巡講倦むことを知らず、同十二年正月下旬大阪を經て堺に來り、大師堂治左衞門方に滯在し、庸行舍に講義し、九月再び來つて道話を講説し、尾崎其他の近村を巡講して十月歸京した。天保元年七月の大震に京都の居宅大破したるを以て、明倫舍の請により、講師として其舍に移住し、爾後、輪講、會講、月並道話、二七講釋等を缺かさなかつた。【再び堺に來り奉行の爲めに心學を講ず】翌二年五月再び堺に來り、大師堂方に淹留して道話を講じ、奉行久世伊勢守の召に應じ、爲めに兩度進講し、大阪、兵庫を經て六月歸京した。爾來或は教諭所の講師に擧げられ、東西に馳驅して寧日なく、心學の地位を向上せしめ、陸離たる光彩を放たしむるに至つた。【墓所】同十年五月三日享年五十七歳を以て歿し、京都知惠光院通下立賣上ル昌福寺に葬り、門弟等は別に塋域を鳥邊山に營んだ。昭和三年十一月從五位を贈られた。【贈位遺稿】遺稿に、鳩翁道話、同續篇、同續々篇、同拾遺二篇、無由言上下、同續篇等がある。何れも失明後の述作で、總て嗣子武修の筆記編輯にかゝる。(鳩翁遣稿)