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(二一二)半井卜養

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 半井卜養名は宗松、始め慶友と稱し、後卜養と改めた。卜養軒奇雲云也の子、母は津田宗及の女、南窓榮薰禪尼である。【堺に生る】慶長十二年堺に出れ、長じて醫を業とし、法眼に敍し、大和守と稱した。(半井家系圖)【松永貞德に學ぶ】【堺流の古今傳受を受く】俳諧を松永貞德に學んで、奧祕を究め、(半井家系圖、俳家大系圖)堺流の古今傳を受け、和歌及び連歌を善くし、殊に狂歌を以て知られた。(半井家系圖)將軍德川家光屢々之を江戸に召し、承應二年十一月には將軍德川家綱に召出され、(複刻卜養狂歌集附錄)【御番醫師】後寬文六年十二月二十五日御番醫師となり、食祿二百俵を給せられ、築地鐵砲洲明石町に邸宅を給はつた。(一話一言)卜養の江戸勤務につき弟宗珠(法號眞伯)其後を繼いだ。(半井家系圖)其頃の狂歌に「卜養は本道とこそ思ひしにうみぢを取るは外科がのそみか」と。今其跡を卜養屋敷と稱して居る。延寶元年十二月法眼に敍し、同六年十二月二十六日病歿した。享年七十二歳。【墓所】品川東海寺の塔頭定慧院に葬つた。法號を牧羊軒法眼雪嶺宗松居士といふ。(複刻卜養狂歌集附錄)堺大通庵址の墓地にある卜養の墓表には、牧羊軒主法眼雪嶺宗松居士と見えてゐる。

第六十七圖版 卜養狂歌集(卷 首)(卷 尾)(挿 繪)

 
 【狂歌についての考】又卜養は本道とこそ思ひしの狂歌に就いて、瀧澤馬琴は、其著異聞雜考に、江戸名所圖會の記事を引いて曰ふ、半井卜養居宅の條下に、「卜養は本道とこそ思ひしにうみちをとるは外科がのぞみか」とある狂歌を載せて、按ずるに江戸砂子に卜養の詠とすれど、歌意は他人の詠めるが如く、不審少からずと云へるは、只其歌を江戸砂子に載せたるものゝみを見て、其他の考の足らざるものである。江戸砂子に云々と記したのは、沾涼が傳聞の謬りで一書には「卜養は外科もすこしはいたす也うみぢを取つて跡はゐやしき」とある。是れにてよく聞こえたりとあるも、いづれが是なるかは明かでない。
 【卜養家集】卜養の家集に狂歌集二册あり、延寶の末年菱川師宣の挿繪にて江戸鱗形屋で刊行し、次で天和二年柏原與市亦之を刊行した。後に至り更に大阪にて出版せられたもの二種あり、何れも半紙判に縮めたもので、其一の安永本には、春隣の畫と、左海半井瑞成の序文が加へられた。(複刻卜養狂歌集附錄)別に拾遺一卷あり、安永九年大阪に於て出版せられたものゝ如く、同じく半井瑞成の序文がある。