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第一編 人物誌
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第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)
(二三一)源 恭義
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源恭義
(一に
恭儀
)は通稱を細川寸三郞といひ、
積翠
又は
歐汀
と號した。和泉大鳥郡原田村の人である。【和泉爲恭の高弟】始め繪を狩野永泰に學び、後
岡田爲恭
に師事した。嘉永の頃堺
少林寺
町に住み、(沙界人名錄)後
南宗寺
の塔頭
寶光菴
に徙り、安政三年十一月五日故あつて自殺した。法名は玄義恭
義信
士、(
本源院
過去帳)
本源院
の塋域に墓碑を營み、
源恭義
之墓と題してゐる。