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(二三九)松木淡々

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 松木淡々は幼名熊之助、後傳七と改め、一に森三陽と稱した。【大阪の人】大阪に生れ、久しく江戸に在つて渭北と號した。【京都に出づ】享保の初上京し、寶井其角の弟子と稱して詞宗となつた。(攝津鈔、俳家奇人談)【江戸に抵る】【大阪に歸り土佐堀に住む】當時京都には言水等其他の俳宗多く、淡々を誹謗したが、少しも念とせず、後江戸京都を去來して、遂に享保十九年大阪に寓居し、土佐堀一丁目に住んだ。(浪速人物誌卷三、浪速百事談)【堺に來遊す】寬保二年六月堺に遊び、門人只清(青木氏通稱酢屋久左衞門、元祿二年の堺大繪圖に依ると、北材木町に酢屋久左衞門がある。多分之であらう、の海莊後東亭に入り、風景の絶佳なるを賞した。(淡々文集)【堺俳諧月次會の判者となる】當時門人岸春館佳林立机して、堺に居住し、俳諧月次會を興行して居つたが、各社中發起して每月二十五日堺天神常樂寺に會することゝなり、淡々に判者たらんことを請ふた。(天神講俳諧記錄)こゝに於て掟の一書を與へ、(天神講俳諧掟書)每月其規定に從ふことゝなり、延享元年五月二十五日同所で其初囘を開いた。同六月の會には判者として出席して居る。(天神講俳諧記錄)【江戸堀に徒る】延享の頃には江戸堀三丁目に居住した。(浪華人物誌卷三)【堺に隱栖す】後跡を門人浦川富天に讓り、寶曆年中堺青木只清の別墅に隱栖した。(淡々文集)【芭蕉筆塚の記】歳時は詳かでないが九間町東二丁經王寺に芭蕉翁の筆塚碑陰の記は自筆になり、八十六歳の時、卽ち寶曆九年十月の紀年になつてゐる。(芭蕉翁碑碑陰誌)之に因て推測すると多分此前後ではなからうか。其後又大阪に移り心齋橋筋飾屋町木村氏に寓し、寶曆十一年十一月二日享年八十八歳を以て歿した。【墓所】高源朝水と謚して同地の瑞龍寺(鐵眼寺)に葬つた。(浪華人物誌卷三)南旅籠町東三丁大安寺に墓碑がある。【大安寺頭巾塚】表面に半時庵淡々老翁之墓とあり、こは翁の遺物たる頭巾を埋めこゝに墳墓を築いて記念とし、門人藁亭由來を記し、明和五年六月に建てたものである。(半時菴淡々墓碑々陰誌)
 【著書】著書に安達太郞根、梅若集、鹿島紀行、歸稻、榧柏、花月六百韻、五歌仙、淡々句集、淡淡文集、月鶴、六鹿、かみの苗、絲屑、かいづの海、戀獨吟、紀行俳諧、廿歌仙、晋子三十三囘、晋子十七囘、年賀集、百三十番句合、俳諧無想集、六百韻、萬國燕淡々雜談集等がある。(日本文學者年表續篇)
 【生活の豪奢】俳諧で財を作つたのは、淡々と建部凉袋の二人であると云はれ其生活も當時の身分として奢侈を極め、獨力金二百兩を以て人丸社を造營し、(浪速人物誌卷三)京都の門人五橋の好意によつたとは云ひながら、日々都から飮料水を送らせて、大阪の川水を飮まなかつたと云はれてゐる。(攝津鈔)嘗て尾張の橫井也有の訪問を受けた際には病と稱して遇はず、強いて謁を求むるに及び、淡々は緞子の蒲團を重ね、繻珍の夜着を被り、盛粧せる女に扶けられて起き出で、片手を擧げて無禮を謝するの狀をなし、何の挨拶もせなかつた。也有其不遜を憤り、歸るに臨んで、玄關にて「化ものゝ正體見たり枯尾花」と口吟して去つたといふ。一書には其人を西國の人菊車とし、枯尾花を雪の朝に作り、又一書には備前の人文庵は、淡々が撰んだ、俳諧三部經に、古人の句を剽竊するものが多いとて、淡々に逢ひ、化物の句を吟じて返しを求めたが、淡々は答ふることが出來なかつたと誹つて居る。これ畢竟流派の異同により、褒貶區々に言傳へたものであらう。【淡々の標語】淡々よく人情を察し、常にいふ、一蕎麥、二普請、三能、四芝居、五傾城、六欲、七欲、八欲、九欲などゝ、人の欲する心理を能く推察したといはれて居る。(浪速人物誌卷三)【淡々の俳風】斯くして享保中浪華俳壇の重鎭として勢力の侮るべからざるものがあつたが、作句は洒落風の弊甚だしく、十中の八九は難解の句たるを免れなかつた。然し其角が題材を撰ばず、之を俳化せんとした、苦心の跡を學んで、俳句の範圍を擴張し、且作品の野卑に陷らなかつたのは、俳壇に於ける價値の沒すべからざるものを示してゐるものであらう。(俳諧二百年史)