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(二七〇)大黑常是

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 大黑常是本名は湯淺作兵衞、諱を常是といひ、大黑屋と號した。【堺の町人】堺の町人である。慶長三年十二月德川家康伏見に銀座開設に際し、【銀貨鑄造の任に當る】常是を召して任に當らしめた。是より先、堺では常是の外に、南鐐座と稱し、桑原左兵衞長尾小左衞門村田久左衞門郡司彦兵衞及び長谷又兵衞等が、諸國の鑛山で、製鍊した荒銀、所謂灰吹銀と稱した銀塊を集めて、各自自由の極印を打つて之を賣買したが、慶長三年に至り、常是一人をして其衝に當らしめたのである。(日本貨幣史)六年五月大津の代官末吉勘兵衞利方の建議を容れ、【伏見銀座の銀吹人】伏見の銀貨鑄造所を銀座と爲し、勘兵衞を頭取に任じ、後藤庄三郞と與に之を管理せしめ、常是をして銀吹人たらしめた。(日本貨幣史、末吉文書)銀吹人は銀座に於ける技師長である。【刻印】常是鑄造の銀貨には「寶」、「常是」の文字極印及び大黑像の繪極印を打たしめた。(日本貨幣史、金銀圖錄二)【駿府銀座】同十一年駿府にも亦銀座を設け、常是並びに二男長左衞門をして、鑄造せしめ、同十三年(十年説もある)伏見の銀座を京都兩替町に移し、猶ほ常是及び其長男作右衞門をして、乏が鑄造に從事せしめた。常是寬永三年三月五日歿し、(日本貨幣史)法號を本性院常是日如といふ。(妙國寺過去帳)作右衞門は同十三年七月五日歿した。【後裔】常是家の本系は、二代より代々作右衞門を襲名し、傍系は初代長左衞門以來其名を繼承し、十代作右衞門の時、寬政十二年五月江戸銀座八代目長左衞門不正事件に坐し家名斷絶し、從つて作右衞門は江戸に移され、京都及び江戸の御用を勤むることゝなつた。(日本貨幣史)