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(二八〇)芝辻理右衞門

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 【家系】芝辻理右衞門其先は備前の人、菊一文字助延と稱し、後鳥羽上皇の番鍛冶に列した名譽の刀工であつた。上皇を奉迎せる築地の作意により、【芝築地】賞詞せられ芝築地と稱せよとの命があり、何時とはなく芝辻と稱するやうになつたと傳へ、(芝辻文書)降つて天文十三年紀州那賀郡小倉の人、津田監物算長大隅國種子島に渡り、鐵砲を得て紀州に歸來の際、【清右衞門妙西】芝辻清右衞門妙西堺より來つて紀州根來の阪本に假寓し、算長の齎せる鐵砲を觀、之を模本とし日夜鍛鍊工夫を重ね、終に銃砲の製作に通ずるに至つたと傳へられてゐる。(鐵炮由緖書)【理右衞門道逸】其子孫理右衞門助延入道道逸に至つて、益々技術を硏き製作精緻を極めるやうになつた。其頃外舶彈丸の重量一貫目許りの大筒を將來した。慶長十六年三月德川家康之を得んと欲し、諸國の鍛冶を集めて、【始めて鐵張の大筒を造る】鐵張の大筒を調進せしめんとし、遂に道逸によつて銃身一丈、口徑一三寸、砲丸重量一貫五百目の鐵砲を獻ぜられた。これ鐵張大筒の嚆矢である。當時の設計圖は現に其子孫の家に傳はり、(大筒雛形圖)其大砲は紀州侯に傳はり、【遊就館の列品となる】今は遊就館の列品となつて居る。【道逸製作の鐵砲大阪攻城の際に使用さる】又大阪冬役に當り、三匁五分玉及び六匁玉各々五百挺を急造し、大に威力を發揮し、功勞により、【高須の地を附與さる】元和元年幕府から堺北鄕高須の地を賜はり、稻荷明神を勸請した。道逸寬永十一年二月十五日歿し、福成寺(錦之町東二丁)に葬り、法號を覺源道逸居士といふ。同寺に其墓碑が現存して居る。(墓表)爾來代々德川幕府の御用を勤め、稟米七十石、十人扶持を給せられ、子孫職を繼ぎ櫻之町に住して理右衞門を襲名した。(芝辻文書)又諸侯の御用を務むるもの、享和の頃には、尾張、薩摩、丸龜、山形、高取、西條、丸岡及び其他多くの諸藩に及んだ。(鐵炮鍛冶諸家御出入名前控帳)又其間鐵砲年寄役を勤め、(文化十年手鑑)以て維新の際に至つた。