ビューア該当ページ

(二八一)榎並屋勘左衞門

403 ~ 404 / 897ページ
 榎並屋勘左衞門は堺の鐵砲鍛冶で、【櫻之町に住す】世々櫻之町に住した。【祖先】其祖先は德川家康の岡崎時代より、既に銃器製作の用を勤め、後幕府江戸道三河岸に邸宅を與へ、御用鐵砲鍛冶として、重用した。(文化十年手鑑)これ榎並屋勘左衞門(徹山圓通)の時なるべく、居士は寬永二十年五月二十二日卒去し、(徹山圓通居士墓表)【墓所】堺柳之町東二丁淨念寺に其碑石がある。其後江戸の邸宅は、京橋立賣又は鐵砲洲などと屢々其位置を變更せられたが、元祿六年までは現存して居た。(文化十年手鑑)【子孫】斯して榎並家は歷世勘左衞門を襲名し、鐵砲年寄役をも勤め、製造取締の任に當つた。(鐵炮鍛冶仲間諸事留帳)享和元年の頃には、郡山、久岐、佐倉、濱松、高崎、明石、西條、氣賀等大小諸侯の用達となり、(鐵炮鍛冶諸家御出入名前控帳)其職を世々にし、以て維新の際に及んだ。