【堺の人】竹本中太夫は堺の人森氏の男で、(壽藏碑誌)吉兵衞又は團九郞と稱した。【三代中太夫の門弟】三代竹本中太夫の門弟で、【初名竹本泉太夫】始の名は竹本泉太夫、文化八年四月から御靈社内で、本朝二十四孝の序、切、口と、大塔宮勢揃への段を語つた。【竹本佐賀太夫】翌九年竹本佐賀太夫と改名して出勤し、二月から十一月まで同所に勤め、それより文樂に出勤し、又各地の興行にも加はつたが、遂に退座して巡業した。文政十年正月文樂に復歸し、太功記高景陣家の段及び瓜獻上の段を語り、引續き出勤したが、十二年二月御靈芝居に轉じて、富士見西行三の口を語り、三月北堀江市の側の芝居に、妹脊山花渡しの段を、五月姫小松龜王住家の段を語つた。九月より文樂に再勤し、出世太平記千本通の段及び白玉椿の段を語つて、大當りを取つた。十一月蹙仇討鶴ヶ岡の段阿彌陀寺の口を語つた。それより暫く本町一丁目の自宅に退隱して居つたが、天保三年正月稻荷文樂座に、生寫朝顏話新物の時、【四代竹本中太夫】竹本中太夫と改名して、其四代目を襲いだ。これより重太夫事後の五代政太夫の預り弟子となつた。三月酒呑童子物語比叡山の段と、渡邊屋敷の段の口を語り、四月彦山權現三ッ目掛合ひと、杉坂の段を語り、又々隱退生活に入つた。十年正月道頓堀竹田の芝居に、元祖竹本義太夫の古額を揭げての興行に、妹脊山の序と切を最後の語り物として隱退し、【名跡を佐賀太夫に讓る】中太夫の名稱は、之を佐賀太夫に讓り、自ら竹中久兵衞と稱した。(淨瑠璃大系圖卷之十、十一)天保十年十一月門人知友等相謀り、【壽碑】壽碑を堺超善寺境内に建てた。法號を釋宗誓といふ。(壽藏碑誌)歿年、世壽は詳かでない。其の趺石には、阪堺世話方の名を刻み、卽ち津、佐賀、佐和、泉、多賀、三輪、志賀、式、中子、和、〓、佐燈、沖等の諸太夫が其名を列ねてゐる。