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(一〇)北田豐三郞

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 北田豐三郞は嘉永五年六月二十二日、車之町東四丁に生れた。夙に公職に就き、【副戸長】明治七年五月和泉國第一大區第一小區一番組副戸長を、八年八月學區取締兼副戸長を命ぜられ、九年十二月改めて一大區一小區副戸長と、十年四月堺市街地租改正中鑑定人とを兼務した。十一年三月一大區一、二小區兼二大區一小區學區取締となり、十三年一月一大區一小區戸長に進み、四年郡區改正によつて郡書記に任じ、大鳥、泉郡在勤を命ぜられ、十四年二月堺縣廢止に際し、更に大阪府大鳥、泉郡書記に轉じ、三月辭職、五月堺區府會議員に、十五年三月府會常置委員に當選した。爾後大正四年九月當選を最終とし、其間改選每に殆ど選に當り、常置委員たること、六囘、郡部會副議長若しくは議長、【府會議長】並びに府會副議長或は議長たること前後各三囘に及んだ。堺市にあつては、二十年十二月區會議員となり、二十二年四月市制實施の際、市會議員一、二、三の各級に當選し、三級の選擧に應じた。【市會議長】五月市會議長、六月市參事會員に當選し、二十五年三月、再び市會議員並びに市會議長に、二十六年五月、更に市參事會員に擧げられた。【堺市長】同年十月堺市長に就任し、【藍綬褒章受領】二十七年八月二十七日藍綬褒章を授與せられ、二十九年二月辭職した。四十二年十二月市參事會員に選ばれ、翌四十三年四月堺市長缺員中市政參與たることを囑託された。是より先、【衆議院議員】三十一年三月大阪府第八選擧區に於て衆議院議員に當選し、八月更に總選擧に再選せられ、大正六年四月三たび當選した。其他、堺區第一學區學務委員、同學事共進會會頭、大阪府地方衞生委員、大阪府教育會員、同徵兵參事員、堺市常設教育委員長、同學務委員、第五囘内國勸業博覽會評議員、同協贊會相談役、堺市農會長、同常設勸業委員、同水道敷設事務所長、日本赤十字社大阪支部堺委員部協贊委員、同收入委員、堺市教育事業調査委員、同水道事業調査委員、同臨時市勢調査委員、國勢調査委員等幾多の要職にあつて、各々其任務に盡瘁した。其間、十五年二月、學事の功勞により文部省より四等賞として康熈宇典一部並びに蒔繪硯匣壹個を授與せられ、二十九年三月、明治二十七、八年事件の功に依り、金圓を下賜された。(履歷書)實業方面では二十六年十月、堺橋鐵道會社卽ち後の高野鐵道を發起して取締役に、(高野鐵道一件)二十九年三月堺米穀取引所理事長に、四十五年五月兵庫縣明石瓦斯株式會社を發起創立して取締役に就任した。(履歷書)斯くの如く、身を公職に、政治に、將た實業に委ねたが、【風流】而かも忙中に閑を得て俳諧に親しみ、其遊又は百耕と號し、又圍碁をも愛好した。晚年久しく病床にあつたが、大正十四年一月二十三日享年七十四歳を以て卒去した。法號を卽生院宗悅居士といふ。眞光寺に其墓碑を建てた。(北田寬三氏報告書)