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(一七)指吸匡道

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 【堺の人】【指吸氏】指吸匡道法諱は慧潭要津と號した。堺の人、甫めて十三歳、【得度】【參究】大阪高津少林寺の月叟に得度し諸方に游方して棠林、行應の二老に參じ、未だ幾何ならざるに月叟示寂したので、文政二年二十二歳にして少林寺に歸住した。時に海山、八幡の圓福寺に法幢を開き、道價關西に高きを聞き、其門に入り、十四年の久しきに亙つた。天保六年三十八歳、【兵庫祥福寺住職】攝津兵庫平野祥福寺に入り、爾來二十八年祥福寺の大株、【門下の高足】少林寺の月舟、永源寺の臨應、寶福寺の九峰等を其門に出した。【東福寺住職兼同派管長】明治十年洛東東福寺に入り管長を兼ね十五年辭去、少林寺に退休し、【妙心寺に入る】二十六年一山の推選によつて妙心寺に入つた。是に至つて前後五囘の住山となり、二十八年花園法皇五百五十年遠忌には、米壽の老軀を以て大導師の任に就いた。【資性】匡道資性溫厚謹嚴、恬淡にして堅忍、粗食、粗服老來益々頑健、志を向上の妙機に傾け、未だ曾て怠ることなく、【餘技】時に畫を描き、特に大黑天の畫像を作つて、福祉を求むる者に與へた。其年八月微恙あり、十月三十一日に終に遷化した。法臘七十八。世壽八十八であつた。(近世禪林叢談)