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(二〇)橋本峩山

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 橋本峩山法諱は昌禎、息耕堂と號した。【京都の人】嘉永六年京都烏丸四條の酒舖に生れ、【得度】五歳天龍寺塔頭鹿王院の義堂に得度した。【甲子變の處置】元治甲子の變、天龍寺兵燹の際には、獨り寺を護つて去らず、將來の偉器たるを思はしめた。明治二年義堂遷化に際し峩山年齒僅に十六歳、悼傷感憤、洪恩に酬ゐんとし、翌三年美濃加茂郡伊保村伊深正眼寺の泰龍に師事し、爾來十一年にして鹿王に歸つた。時に滴水天龍寺に在り、乃ち參道して止まず、共に本寺の再興を劃し、やがて二十四年堺南宗寺に請せられて、【南宗寺住職】住職となり、甫めて接衆した。(峩山禪師言行錄)次いで、翌々二十六年九月同寺に澤庵の二百五十囘遠忌を營み、(澤庵和二百五十囘忌短册)三年にして又鹿王院住職に復した。【天龍寺派管長】三十二年天龍寺派の管長に陞つて僧堂を菫し、雲衲常に八、九十人、道譽日に高く、參道の名士も亦尠くなかつた。
 是より先、南宗寺在住に際し、寺門廢頽して貧窶洗ふが如く、此間に處して枯淡に甘んじた。【逸話】偶々京都の人、竹村某暑を冒して來訪した。峩山遠來を喜び、今日は堺の西洋料理を饗應しやうとて、先づ侍者に酒肴を命じ、自ら雨戸を外づして卓とし、之に風呂敷を覆ひ、腰掛を擔ぎ出して椅子に代へ、是で先づ座敷は出來た。是からが馳走じや、第一に燒唐辛子、第二に生豆腐に醤油、其次は隱元豆の合へ物、是が堺の西洋料理じやと。某其洒脱なるを喜び、歡を盡して辭去した。又或時大阪師團の兵、野外演習に際し來つて南宗寺の一室を借り、宿營に充てた。峩山卽ち執事に命じ、野外演習は國家の萬一に備へん爲に、平素訓練を行ひ、艱苦を平常に實踐せしめんが爲であるとし、悉く一樣に麥飯に蔬菜を饗した。將校某大に冷遇を憤り、峩山の居間に闖入して、我等軍人は一命を捧げて身を國家に致すものであると、聲色劇しく詰責したが、峩山冷笑一番して、それはお互さまだよと。逸事今猶時に堺人の唇頭に上ることがある。
 峩山狀貌魁偉、骨格偉大、膂力亦衆に超え、【角力を好む】角力を好んで雲水と角技し、何時も一方の大關を以て自任した。又平生綿布の弊衣を着し、他行に際しては大抵頭陀袋に綱代笠で、一雲水の風采に甘じた。(峩山師禪言行錄)而して亦詩文、書畫並びに之を能くし、【酒を嗜む】斗酒を辭せなかつた。(日本書畫名家編年史卷五)一日某に戲れていふ、予をして酒を飮ましめよ、一合にして禪機纔に至り、五合にして春風駘蕩たり、飮んで一升に至れば、天上に月出で、寒潭に魚躍ると。三十三年一月一日示寂した。世壽四十八。(峩山禪師言行錄)