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(二二)正木林作

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 【日根郡小島村の人】正木林作は和泉日根郡小島村の人、文政九年六月出生した。父を幸助と云ふ。二十二歳北海道に渡つて商利を圖つたが、事志と違ひ困頓の極遂に堺に歸り、商店を開いた。【家道の挽囘に努む】爾來鋭意勤勉負債を償還し以て父の憂ひを解き、既にして慶應四年五月新地鄕の組頭となり、大濱通口町に住し後戸長となつた。(正木翁碑、(晚晴樓文鈔二篇中))【公職】次いで堺港燈臺を管し(堺燈臺起原沿革答申書)爾來二十餘年間學務委員、勸業委員、區會議員等を兼ね、或は商法會議所役員、米穀商頭取となつた。平生意を産業と教育とに用ひ、學務委員としては下等小學と上等小學とを分置せんことを建議して容れられ、學校には先づ己の子弟を入れて然る後普く鄕黨を勸誘する等細心の注意を拂つた。是より先、大阪府下水旱に苦しみ、飢民多く上下憂苦した。林作會々大阪の人佐貝義胤が來堺して蠶桑の道を説くを聞いて大に喜び、之を興さんことを建議し知事の許可を得、直に富戸に説いて義捐を募り、前後數千圓の資金を得、【養蠶傳習場創設】十九年三月直に方違神社の附近に養蠶傳習場を創設した。林作選ばれて場長となり、教師を招聘し、生徒を養成して竟に百八十餘名の卒業生を出した。玆に於て養蠶製絲の業大に興り、傳習場開設以來未だ數年ならざるに、府下三州に於て年々成繭を得ること五千石に達したといふ。(正木翁碑、正木林作翁偉功碑文)二十七年三月十六日享年六十九歳を以て病歿し、【墓所】正法寺の塋域に葬つた。前配綿谷氏、後配南氏、子男三人、女二人、内一男一女は夭折し、長林三郞家系を繼ぎ、少直彦は現に東京美術學校長である。(正木翁碑)二十八年三月舊養蠶傳習場出身の有志功績を後世に傳へんが爲めに、碑を方違神社境内に建て、【偉功碑】題して正木林作翁偉功碑といふ。