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(二九)清川幸齋

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 清川幸齋幼名は四郞次、通稱は、字は玄良、【下總高岡村の人】下總香取郡高岡村小浮金澤四郞左衞門の第二子で、天保十二年二月出生した。初め劒を飯篠氏に學んだが、悟るところあつて丹波に赴き、莩葭の族、【醫を清川賢酉に學ぶ】龜山侯の侍醫清川賢酉に學んだ。學成つて養子となり、姓を冒し、【大學東校に入る】後大學東校に入り、更に醫學を專攻して造詣頗る邃く、明治五年職を兵庫縣病院に奉じ、【堺病院に奉職す】六年堺病院に轉じ、十三年其職を辭した。官其積年の功勞を賞して、金若干を下賜した。此歳堺病院廢止に際し此地に、一病院なきを歎じ、自ら資を投じて、【醫院の建設】醫院を少林寺町に建設した。爾來遠近治を乞ふもの常に門に滿ちた。幸齋患者に接するに貴賤の別なく、人皆之を慕ひ、遂に悉く病者を收容する能はざるに至り、十七年十二月更らに熊野町卽ち菅原神祠南門外角に大厦を新築した。是れ卽ち大阪井上病院の分院である。(清川家代々神靈記念標誌)明治三十七年一月堺市會議員に當選し、爾來市政に貢獻するところ多く、四十二年十二月に至つた。(堺市會議事錄)大正元年九月二十日享年七十二歳を以て歿した。