和田益齋は通稱を幸三郞といふ。(左海人名錄)【信濃の人】信濃の人、一旦叡山に登つて出家し、後還俗して堺に來り、(和田禎太郞氏報告)【堺に徒る能書】神明町大道に住して能書の名あり、書道を以て生徒に教授し、(左海人名錄)【周易を硏む】傍ら周易を硏め、又奧野小山に就いて易説を學んだ。其號益齋は周易から取つたものである。堺の書家三甁信菴に請ふて、益齋の二字を大書せしめ、之を書齋に揭げ、又小山に囑して銘を作つた。(小山堂詩鈔卷之下)明治七年十二月二十二日享年六十六歳を以て歿した。【墓所】神明町東二丁聞藏寺に墓碑がある。