關治彦は茂園と號した。勝浦林平の次子、天保七年十一月出生した。【尼崎藩士】尼崎藩の弓術師範關治衞門に子養せられ關氏を冒した。【國學を敷田年治に學ぶ】幼時國學を敷田年治に學び、文法に精しかつた。明治八年奈良縣寧樂書院の教職に就き、【堺縣師範學校教員】九年堺縣師範學校七等訓導に轉じて寮長を兼ねた。人と爲り和平、嘗て相爭ふことがなかつた。國文法の晦澁にして、明かならざるを慨き師説に據つて、【日本文法書を著す】日本文法數卷を著した。其書簡明、要領を得るに便であつた。十二年十一月一日病歿した、享年四十六。【墓所】翌二日堺智禪寺(戎之町東四町)の塋域に葬つた。(茂園關君墓碣銘(晚晴樓文鈔下))