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(三九)賴 達堂

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 賴達堂諱は鉉、字は君擧、達堂と號した。【賴春水の姪】父は賴春水の弟春風の子元鼎である。【山陽に子養さる】元鼎春水に子養せられたが早世した爲め達堂は山陽に養育せられた。幼にして頴悟、尤も詩を善くした。十三歳、山腸に從ふて詩仙堂に遊んだ時、山陽詩を賦して曰ふ、「竹樹陰陰綠蔽墻、詩仙堂古鎖斜陽、」と。達堂屬して「先生書畫今猶在、留得風流千古香、」と。聞く人其警敏に服した。既にして二十歳江戸に遊び、【昌平黌に學ぶ】昌平黌に入つて學ぶこと三年、業大に進んで歸京したが、此時山陽は既に歿し、遂に大阪の儒者篠崎小竹に倚つた。時に大阪藥鋪の巨擘三臟圓の主人吉野五運韻事を解し、小竹と親交あり、達堂は小竹の紹介で、同家の客となつた。【吉野五運の堺支鋪に居る】因て五運は達堂を堺戎之町の支店に居らしめた。達堂藥を賣り、傍ら詩文を事とした。性酒を嗜み、文雅の士を會して、痛飮淋漓、夜を徹し常に頑健を誇つて、百歳は未だ壽とするに足らずと豪語した。【堺縣師範學校教員】晚年職を堺縣師範學校に奉じ、二等助教諭となつた。一旦疾を得然も強て教職にあつたが、明治十七年六月十一日享年七十歳を以て沒した。【墓所】南宗寺本源院の墓地に葬る。詩集若干卷を殘してゐる。(達堂賴翁碣(晚晴樓文鈔初編下))