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(五八)藤本莊太郞

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 藤本莊太郞諱は泰忠、凌霜と號した。(藤本莊太郞墓碑銘)父を長治郞(後庄左衞門と改めた)といひ、嘉永二年四月十二日堺車之町に生れた。【絲物商】家世々絲物商を營み、眞田紐製造を業とした。【祖父庄左衛門緞通織を始む】祖父庄左衞門天保二年五月相良緞通、支那製敷物などに倣ひ、之に自己の意匠を加へて新製品を創始した。是れ手織込緞通の濫觴である。(堺緞通業起原及び事歷)嘉永五年祖父歿し、其子長三郞家を繼ぎ、父の名を襲ふて庄左衞門と稱し、番頭萬兵衞の後見で、緞通製職に從事したが、安政五年庄左衞門歿し、當時莊太郞は年齒漸く九歳であつたが、手代喜助、萬十郞、幸七等能く幼主を補佐して業を繼ぎ、自らも亦長ずるに從ひ、鋭意努力して業に從ひ、遂に文久二年模樣摺込の緞通を發明し、大に時好に投ずるに至つた。【摺込緞通の嚆矢】是れ摺込緞通製織の嚆矢である。然かも當時製織法は頗る幼稚で、産額亦數ふるに足らなかつた。明治二年十二月組頭役に擧げられ、同五年四月第七區小二區戸長より、同七年五月第一大區一番組戸長に轉じ、鋭意行政事務に鞅掌し、同十年からは職を堺縣廳に奉じたが、翌年辭職して、專ら力を緞通製職に注ぎ、一意改良に努力した。(藤本莊太郞履歷書、藤本莊太郞墓碑銘)【テップの製作】これより前九年海軍省西洋テップを模造して納入せしむるや、苦辛硏究して之を完成し、同十六年に至るまで納品を繼續した。是れ我國に於けるテップ製造の嚆矢である。(商業資料)又明治九年頃から斗量を製作したが、同二十年以降も尚繼續して居つたやうである。(明治九年太政官布告第十七號、明治二十一年大阪府堺區役所統計書)十年 明治天皇堺御駐輦に際し、【製品の天覽】謹製の緞通を叡覽に供し、又第一囘内國勸業博覽會に出品して好評を博した。是に於て支店を東京尾張町一丁目に開き、翌十一年冬始めて外國商館の手を經て、米佛に輸出し、同十二年大阪市久寶寺町に支店を開き、【販路の擴張】内外に其販路の擴張を圖つた。(商業資料)同十二年十月別製品を皇室に獻納して、金若干を賞賜せられた(藤本莊太郞履歷書)【麻緞通の製織】同十七年秋始めて麻緞通(ゴロス)を製織して好評を得たので、同十九年冬始めて輸出を試み、漸次斯業の發達を見るに至つた。此間村田孝平と協力して、【機械機具の改善】織機、剪斷器(剪刀)及び摺込型を改善して人工を省き、廣幅ものを製織し聲價亦倍舊した。【輸出】猶ほ米國人イー・デ・メーソンと提携して、海外に販路を擴張し、土耳古緞通と市場に相馳驅するに至つた。次いで粗製濫造の弊、漸く繁からんとするを察し、同二十二年一月、【堺緞通業組合組織】堺緞通業組合を組織し、組長に推され、終生任務を全ふした。同二十六年一月同業者相圖り、金牌を贈つて勞を謝した。【海外狀況視察】同年六月北米合衆國シカゴ開催の萬國博覽會視察の途に上らんとするに當り、市民有志者七百餘名は、或は煙火を打ち揚げ、或は物品を贈つて行途を壯んにした。シカゴに滯在中は英、米、佛等の敷物店を巡視し、配色模樣等を硏究して大に得る所あり、歸朝に當つては亦盛んに市民の歡迎を受けた。
 【綠綬褒章下賜】明治二十七年二月、賞勳局より綠綬褒章を下賜せられ、【メーソン氏の來堺】同年二月メーソン氏夫妻は遠く北京から來朝訪問に際しては、之を南宗寺に迎へて歡迎し、又大濱茅海樓に饗宴を張つた。(堺新聞第七十三號、同七十四號(明治二十七年二月六日、同七日))此メーソンの來堺は緞通業の發達に非常の好影響を與へ、益々輸出を激增するに至つた。當時同業の工場一千八百八十餘戸、職工數一萬七千餘人、販賣價格百七十八萬數千圓に達した。又明治十年より同三十年に至る間に内外の博覽會及び共進會等に出品して金銀銅牌並びに木盃、賞狀等を受領するもの七十種を算してゐる。(藤本莊太郞履歷書)
 是より先、莊太郞大阪商法會議所會頭五代友厚の勸説に應じ、【堺商法集會所の創立】堺商法集會所の創立に盡力し、十二年九月副會頭に當選し、尋いで會頭となり、組織を變更して、商業會議所となつた際には復其會頭に選擧せられ、同三十五年解散の時に及んだ。(商業集會所に關する記錄)【公職】同三十一年二月大阪府緞通組合組長に當選し、其他大阪府勸業諮問會委員、關西府縣聯合共進會織物審査委員、堺市參事會員、臨時博覽會事務局評議員、北米萬國博覽會名譽會員、第四囘内國博覽會審査官、改正條約實施準備に關する調査委員、貨幣制度調査委員等多くの重要なる職務に與かつた。(藤本莊太郞履歷書、藤本莊太郞墓碑銘)
 【爲人】莊太郞氣慨あり、思慮あり、克く黽め、克く勵み、鄕土の産業を一身に擔ひ、任とする所を謬らず、緞通王として不朽の盛名を殘した。明治三十五年七月二十八日享年五十四歳病歿し、【墓所】墓碑を宿屋町東三丁善教寺に建てられ、藤澤南岳の碑銘を刻せられた。(藤本莊太郞墓碑銘)