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(一二)菅原神社址

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 【所在】俗に翁天神と稱せられた梅翁寺の鎭守菅原神社は錦之町西二丁錦西尋常小學校東北隅にあつたが、明治四十年九月北半町高須神社へ合祀移轉した。神社は德川時代梅翁神社とも稱したが、明治維新後梅翁寺より分離し、菅原神社と改め、村社に列し、境内十坪、合祀前には桁行四間、梁行三間半の本社、社務所、井戸、惣敷地、神樂所、社務所、末社稻荷神社があつた。當時の繪圖によるに境内は梅翁寺の東にあつて元祿二年の堺大繪圖に見えた梅翁寺祠堂屋敷の位置に該當してゐる。東西十間、南北七間、東北二方は道路、西南二方は寺屋敷であつた。其東側中程に表門があり、東北隅に末社稻荷神社があつて、同社の西へ神樂所、社務所が東西に並び、社務所の南、境内の西南隅に東面して本殿、拜殿があつた。(神社提出書類)