【所在】地賢寺は戎之町東四丁にあつたが、早くより荒廢に歸し、舊址は明治三十四年二月熊野町東二丁酒釀造業山田庄平氏の所有となつた。(社寺明細帳、山出庄平氏談)【元祿二年の境域】元祿二年堺大繪圖によれば水落町(戎之町東四丁)南側にあつて、東は西向寺、西は智禪寺、南は道路を隔てゝ冣勝寺、北は禪通寺に接した南面の東西六間(新間六間三尺)南北二十六間(新間二十八間一尺)の境域を示してゐる。【舊址】此境域は現在西向寺西隣戎之町東四丁三十二番地白野治郞吉氏住宅より同番地芝上秀吉氏住宅に至る間を表口の址とし、其より北二十八間一尺迄が奧入の址である。明治初年境域は百五十六坪に縮少して人家となり、同三十四年山田氏の有に歸した。【遺物】其當時地平を行つた所、文祿、慶長、元和、寬永等の年號を刻した多くの墓石が發掘された。