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(一六)梅翁寺址

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 梅翁寺は、【所在】錦町西二丁字梅翁寺町にあつたが、大正二年大阪市西區九條南通四丁目へ移轉した。【元祿二年の境域】元祿二年堺大繪圖には錦町濱筋に西面し周圍東は祠堂屋敷を隔てゝ善教町筋、西は錦町筋を中にして庶人屋敷、會所等、南は表屋宗眞宅、北は錦町濱筋を挾んで炭屋五郞兵衞掛屋敷に對した十間(新間十間五)四方の境域であつた。祠堂屋敷は當寺東側に北面し、東西六間(新間六間三)南北九間(新間九間四五寸)の境域である。其當寺境域に「彌五兵衞表五間、入五間書付ナシ、長右衞門表五間、入同」と帖紙があるのは、曾て寺域が彌五兵衞、長右衞門の屋敷であつた事を示すのであらう。此元祿の狀態を現狀に於て實測するには、當時と道路幅員の變つてゐない錦西小學校表門筋西側の北端卽ち同校東北隅を起點とするのが便利である。【舊址】此起點は往時梅翁寺祠堂屋敷の東北隅であつたから、同所より同屋敷東西筋たる六間三(新間)西へ立寄つた所(同校北側の一點)は寺址東北隅となる。此所より更に西へ梅翁寺東西筋たる十間五赴いた錦之町北筋に於ける同校西北隅は寺址西北隅となり、其西側なる幅員二間、南北七間一の小路は往時の梅翁寺町筋の名殘である。以上東北、西北兩隅の址より各南へ十間五(新間十間)立寄つた同校舍の一隅は同寺の東南、西南隅の址となる。斯して各々四隅を繫ぐ境域は現在の錦西小學校東北方の敷地に當るのである。