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(一九)鐵砲射的場址

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 【所在】鐵砲射的場は北半町、北旅籠町、櫻之町の西方字七道及び三寶村の一部に跨つてゐた。【舊址】現在右射的場の土壇は南海鐵道七道驛の西北三寶村(鐵砲町一丁)の田園中に存し、井上關右衞門氏の所有に屬し、(柳原吉兵衞氏談)高さ約十、幅東西四間二餘、南北五間一餘、内地上三四は疊石である。大正三年柳原吉兵衞氏發起の運河開鑿工事中、【放鳥銃定限記】第一開拓橋の畔より發掘した放鳥銃定限記の碑には此射的場の由來を刻し、現在大和川染工所、青霞會館庭園の鐵砲記念碑中に嵌入せられてゐる。

第百四十五圖版 鐵砲射的場

 
 

「夫鳥銃者兵器也攻戰樞要最爲之先雖然操之有法守其正鵠則千里邈遠恰如咫毫釐有差天地縣隔不可以不勤習矣忠重幼有志于斯夙勤夜思須臾不忘是以奉承 小濱民部丞嘉隆 嘉隆本邦摠舳將而文武精英守令豪傑也尤精斯術故法其清化勵此功成竟張帷〓於和泉之堺南海濱畔定之以限獲試其用視之如堵 嘉隆謂然有嘆猶且月鍛年鍊屢試屢中覺有其郊皆是嘉隆鴻惠也鳴呼天哉命哉是歳三月 嘉隆下世矣頃日高弟利隆來督此館能表先志占小善者名
一藝者率錄登庸是故諮詢忠重前事感習修不空試用有效命勒其事於石可謂善勵武事矣 忠重敢不可辭聊記年月云爾 攝津州東成郡浪華城下 寬文四年星舍甲辰冬十一月朔日 川名金右衞門忠重謹誌
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萬治三祀庚子五月二十四日
  百匁筒丸著十七町 同釻入二十一町〓獲玉 二百匁筒入二十四町〓獲玉
  三百匁筒入二十八町〓獲玉
寬文二載壬寅四月十五日
  五百匁筒〓入三十二町〓獲玉
同三稔癸卯三月二十六日 五百匁筒入三十六町〓獲玉